関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1730 旅行記73東北5 弘前城・三成の子の辰姫の墓、杉山家代々の墓にお参り

<<   作成日時 : 2016/09/22 10:36   >>

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 写真は弘前城を18日に撮ったものです。城の向かって左側の奥の方に、岩木山が見えています。
 弘前城を訪ねるのは、三十数年ぶりです。独身時代に、勤務していた高校の国語科のやはり独身の同僚と二人で夏休みを利用して訪ねました。あの時は、文学を訪ねる旅であり、太宰治、宮沢賢治、石川啄木などのふるさとやゆかりの地を訪れました。その時は、津軽や弘前が三成やその子孫と関わりの深い場所であることは知りませんでした。
 今回はオンライン三成会の人々と訪ねたわけですが、午前中は弘前城を回り(ここもボランティアガイドの人に案内してもらいました)、午後は革秀寺(津軽家の菩提寺)、貞昌寺(津軽二代藩主に嫁いだ三成の三女・辰姫の墓があります)に参拝した後、宗徳寺で、三成の次男・重成の子孫である杉山家の当主の人と息子さんと待ち合わせ、系図の写しや寺にある杉山家の位牌を見せてもらい、境内にある杉山家代々の墓に案内してもらいました。辰姫の墓や杉山家の墓は、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも取り上げられていますが、私は今まで訪ねたことがないので、ようやくお参りできたという思いを持ちました。このことは、改めて触れます。
 さて、弘前城ですが、現在、石垣修理のため、現在、70メートルほど北西に移動しています。私が前見た時は、元の場所にあった姿だったわけです。
 もともと天守は、弘前城のパンフレットによれば、津軽藩の藩祖である為信によって慶長8年(1603)に計画され、二代藩主信枚(のぶひら)が慶長15年に着手し、翌年に完成しました。この信枚に嫁いだのが三成の娘の辰姫でしたが、後に家康の養女である満天姫(まてひめ)が正室として嫁いだため、辰姫は側室に降格になり津軽藩の飛び地である大舘で過ごし、「大舘御前」と呼ばれました。この女の戦いをボランティアガイドの人は、「女の関ヶ原」と呼んでおられました。しかし、三代藩主信義を生んだのは、辰姫であり、三成の血が津軽藩に入ったわけです。
 津軽家が三成に恩義を感じたのは、津軽家が大名として認められる時に、三成の後押しがあったからであり、それだからこそ、津軽藩は辰姫を信枚の妻にし、重成を匿い、取り立てたわけです。ボランティアガイドの人も、三成が為信の長男の信建の烏帽子親になったことを知っておられました。
 天守は落雷のため寛永4年(1627)に焼失し、長い間、天守はありませんでしたが、文化7年(1810)、隅櫓の改築と幕府には届け出て、天守を再建しました。上の写真では天守らしい姿を見せていますが、裏に回ると櫓の形をしています。
 
 
  

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