関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1731 旅行記74東北6 石田重成が運んだ秀吉の木像が祀られていた弘前城の館神

<<   作成日時 : 2016/09/23 12:10   >>

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写真は弘前城の館神(たてがみ)跡を18日に撮ったものです。秀吉の木像を安置していた場所であり、弘前城のパンフレットには、「ごく限られた人だけが出入りできる場所でした」と記されています。
 写真の手前、左右に見えるのが、鳥居の礎石であり、奥に見えているのが本殿の柱でした。秀吉の木像を運んできたのが、三成の次男の重成でした。その木像を津軽家は、江戸時代、ご神体として祀ってきたのですから、大胆なことですし、重成に対する津軽家の厚遇ぶりがわかります。重成は杉山源吾と姓名を替えますが、重臣として取り立てられ、その子孫は家老職にまで上り詰めました。
 この秀吉の木像は、現在、津軽家の菩提寺である革秀寺に祀られていることが、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)に記されていますし、NHKで放送された「秀吉チルドレン それぞれの正義」でも、「真田丸」で加藤清正を演じている新井浩文さんが、この木像に対面していました。
重成が津軽に落ち延びた経緯については、森岡榮一氏の「石田三成と津軽」(『あおもり草子 特集石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所収)に次のように記されています。
 関ヶ原の戦いがあった2日後の9月「17日夜、石田三成の次男『重成』は、混乱する城内から脱出し密かに奥州に逃げ延びたと伝えている。(中略)脱出の際には、津軽家当主・為信の嫡男・信建が家臣を警護につけて、若狭小浜から日本海を船で津軽へと落ち延びたという。これは、三成が信建の元服時の烏帽子親を務めていることと大いに関係していると考えられる」と。
 また森岡氏の同書には、重成が大坂城から携えてきた家宝の記録として、「甲冑 一領」「薙刀 一口」「刀 一口」「豊太閤坐像 一躰」「杉山八幡宮神像 一躰」「御先祖肖像 一躰」とあることが記されています。このうち、「豊太閤坐像」が秀吉の木像であり、弘前城の館神に安置されていたものです。また「御先祖肖像」は、「石田三成肖像画」のことですが、森岡氏は「肩衣に襞が三つあり、脇に『しぼ』がある形式は、慶長17(1612)年を上限としている」ことなどから、「重成が大坂城から携えてきたものではないと推量される」と指摘されています。
 重成が「北津軽郡板柳町深味に隠棲し、寛永18(1641)年に4月8日に享年53歳で卒去したのである」ということも記されていますが、この場所にも19日に三成会の人々と訪ねました。杉山家の人が、深味八幡宮を管理している神家の人に連絡を取っていただいて、訪問が実現し、拝殿の中にも入れていただきましたし、杉山屋敷があったところへも案内していただきました。

 

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