関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1732 旅行記75東北7 革秀寺の津軽為信の御霊屋・為信の事績 と三成

<<   作成日時 : 2016/09/24 10:46   >>

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 写真は弘前の革秀寺にある津軽為信の御霊屋を18日に撮ったものです。弘前城を見学した後に訪ねましたが、この御霊屋も本堂も修理中でした。この御霊屋に、三成の次男である重成(杉山源吾)が大坂城から持参した秀吉の木像が安置されています。
 為信の御霊屋について、片山康夫氏の「ゆかりの地を訪ねる」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)に次のように記されています。
 「御霊屋は土塁に囲まれ、岩木山を背に弘前城のある東を向いて建てられている。円柱の柱などには漆が塗られ、扉には津軽家の家紋が輝く。内部は彩色された62枚の塔婆が張り巡らされ、天井には天女の絵。その荘厳な雰囲気に一間四方という実際の面積より広く感じる。豊太閤坐像は、為信を供養する笏谷石製宝篋印塔とともに安置されている」と。
 革秀寺は津軽家の菩提寺であり、それだから藩祖である為信の御霊屋もあるわけですが、この後、20日に青森市内を一人で歩き回った時、太宰治が旧制中学時代に下宿していた跡地のそばに「覚正寺」という寺がありました。ここはもともと「覚正(かくしょう)寺」という名前だったのですが、「革秀寺」と音(おん)が紛らわしいため、津軽家に遠慮して名前を替えたそうです。それだけ、江戸時代は革秀寺の格式が高かったわけです。青森も津軽藩の一部だったということも実感しました。
 「あおもり草子」に津軽為信について次のように記されています。
 「天文19年〜慶長12年(1550〜1607)
 弘前藩初代藩主。18歳で大浦為則の娘へ婿入り、為則の死により跡を継ぎ、大浦右京亮為信と名乗る。元亀2年(1571)の石川大淵ケ鼻城への攻撃を皮切りに津軽一円を攻略、天正16年(1588)、津軽の平定がほぼ確定した。石田三成の斡旋により太閤秀吉に大名として領土を安堵される。関ヶ原の戦いの際は三男信枚とともに美濃大垣戦に参加。その軍功により上州大舘(群馬県勢田郡大舘外五ケ村)を恩賞に浴した。慶長12年(1607)、京都山科で病死」と。
 津軽家も真田家と同様、関ヶ原の戦いの際、親子で敵味方に分かれたわけですが(長男信建は西軍で大坂城にいました)、三成のことを憎からず思っていたことは、三成の次男・重成を匿ったことでも、信枚が三女・辰姫を妻に迎えたことでもわかります。辰姫が過ごした大舘が、関ヶ原の戦いの恩賞だったというのも皮肉なことです。 

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