関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1733 旅行記76東北8 三成の三女・辰姫の貞昌寺の墓・23年後に大舘から移送

<<   作成日時 : 2016/09/25 10:49   >>

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 写真は弘前の貞昌寺にある、三成の三女・辰姫の墓を18日に撮ったものです。
 辰姫のことについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「辰姫」の章で詳しく記されていんますし、この墓も写真入りで紹介されています。私も一度お参りしたいと思っていましたが、ようやく果たしました。
 「あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二」の中に、辰姫について次のように記されています。
 「文禄元年〜元和9年(1592〜1623)
 弘前藩二代藩主津軽信枚の側室。豊臣秀吉の正室・北政所の養女として育てられた。弘前藩領上州(群馬県)大舘に住んだため大舘御前と呼ばれる。徳川家康養女・満天姫が正室として信枚に輿入れしたため、側室となる。三代信義の生母」と。
 辰姫が北政所の養女になったことは、三成と北政所の近しさを物語っており、北政所が家康寄りで三成を嫌っていたという従来の捉え方に対する反証になっています。この見解を最初に示されたのは、白川亨氏です。
 杉山丕氏の「関ヶ原の戦いで敗れた三成の子孫と津軽」(『あおもり草子』所載)には、北政所の養女となった辰姫について、次のように記されています。
 「辰姫は7歳の時、北政所(秀吉の室)の養女となったとされ、北政所が、夫秀吉を失った慶長3年(1598)あたりからで、関ヶ原の戦いなどあった平坦ではない12年間を、『客人』という名称で密かに過ごす」と。
 この記述は、白川氏の見解に基づいています。
 辰姫は32歳で亡くなり、子の信義が藩主になることを見ずに死んだということも杉山氏の同書に記されています。遺骸は大舘の東楊寺に葬られましたが、23年後の正保3年(1646)に貞昌寺に移葬されました。このことは、「三成伝説」にも記されています。満天姫は、寛永15年(1638)に弘前城で50歳で亡くなりますが、辰姫の生んだ信義は、満天姫が生きている間は、母親の遺骨を弘前に移すことははばかられたのでしょう。辰姫が大舘から生涯出られなかったのは不幸なことで、死んでから23年も経ってようやく弘前に葬られたことに、哀れさを覚えます。
 東楊寺は、やはりオンライン三成会の有志の人々と十数年前に訪ねたことがありますが、三成が攻めた忍城や丸墓山の三成本陣、館林城を訪ねた際でした。

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