関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1735 旅行記78東北9 信義が寄進した最勝院の五重塔・杉山家の顕彰碑・信義の事績

<<   作成日時 : 2016/09/27 10:26   >>

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 写真は弘前の金剛山最勝院の五重塔を、隣りの弘前八坂神社の境内から18日に撮ったものです。
 写真を撮っている後ろには、杉山家12代龍江の顕彰碑が建っています。ここへは、杉山家当主と息子さんの案内で訪ねました。菩提寺である宗徳寺でお会いして、境内の代々の墓を案内してもらった後、行きました。
 この顕彰碑について、片山康夫氏の「ゆかりの地を訪ねる」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)の中で、次のように記されています。
 「杉山家は代々、弘前藩の重臣を務め、藩政を支えた。幕末には龍江が権大参事となり、政府との調整に奔走。中・北・南津軽の郡長などを歴任した」などと。
 「代々、弘前藩の重臣を務め」たということについては、三成の孫である吉成が最初に津軽藩の家老職に抜擢 されて以来、杉山家の四代、六代、九代、十二代が家老職になったことが、杉山丕氏の「関ヶ原の戦いで敗れた三成の子孫と津軽」(『あおもり草子』所載)に記されています。
五重塔を寄進したのは、津軽藩三代藩主の信義、四代の信ですが、信義は三成の三女・辰姫が生みました。信義については、「あおもり草子」に次のように記されています。
 「元和5年〜明暦元年(1619〜1655)
 弘前藩三代藩主。弘前藩領の上州大舘(群馬県)で生まれたが、五歳で母辰姫と死別し、江戸の津軽屋敷に移る。13歳で父信枚の跡を継ぎ、若くして藩主となった。百沢の大堂(岩木山神社)の修復などをし、治水工事、津軽新田の開発、尾太鉱山の開鉱、牧場の開設など多くの功績を挙げた。石田三成の孫にあたる」と。
 信義を藩主にするに当たっては、信枚の正室の満天姫(徳川家康の養女)の尽力がありました。このことについて、杉山氏の同書には次のように記されています。
 「満天姫は、辰姫が亡くなった後、江戸屋敷に移された信義を、嫡子として育て、信枚もこれを幕府に認めさせ、津軽家の後継ぎとして届けている」と。
 満天姫には、信義より一歳若い信英という子がいましたが、近年になって信英は満天姫の実子ではなく、側室の子だったとわかったということも、杉山氏の同書に記されています。
 三成の血が流れている信義を藩主にすることについては、満天姫の胸中には複雑なものがあったに違いありません。

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