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zoom RSS 石田三成の実像1736 昌幸の田んぼアート 大河ドラマ探訪433「真田丸」100 清正は暗殺か?

<<   作成日時 : 2016/09/28 18:24   >>

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 写真は「真田丸」の草刈正雄さん演じる真田昌幸を表した「田んぼアート」を19日に撮ったものです。写真に向かって左側に、山本耕史さん演じる石田三成の「田んぼアート」があります。むろん、われわれは上の展望台から見下ろしているのですが、上から見てきちんとした武将の姿にするのには、相当高度なレベルが必要とされるのではないでしょうか。
 「真田丸」第38回「昌幸」のラストシーンで、昌幸が死ぬ場面が描かれていました。昌幸・信繁が九度山に流されてからの10年余りのことを一回分で描くのは無理がありますが、このドラマのクライマックスである大坂の陣を描くのには、残りの回が必要であり、時代が一挙に飛ぶのもやむをえないところです。「真田丸」では、真田家が生き残るために昌幸が数々の謀略をめぐらせていましたが、史実とは違うところもあった(その点については、拙ブログでも取り上げました)ものの、ドラマではともすれば信繁以上の存在感がありました。三谷幸喜氏は昌幸を描きたかったと「三谷幸喜のありふれた生活」で述べられていましたが、草刈さんの名演技によって、それは大成功をおさめたと云えます。
 昌幸はこれまである意味、主役的な存在でしたから、その死ぬ場面があるのは当然ですが、本多忠勝や加藤清正はその死をナレーターが語るという形であっさり終わっていたのは、気の毒な扱いでした。清正の方は、二条城での家康と秀頼の会見の後、家康の刺客によってさっと斬られる場面が用意され(刃物には毒が仕込まれていたのでしょうか)、清正の死が家康の関与によるものという捉え方でした。昔から、清正の死は、家康による毒殺ではないかという説がありますが、これについては、熊本日日新聞社編の「加藤清正の生涯」で、否定的な見解が示されています。
 すなわち、慶長16年(1611)3月28日の二条城での「会見後も清正は健在だった。4月9日に茶会を催し、22日には能を鑑賞。加藤家の情報を集めていた毛利家の史料によると、5月2日に大坂を出発、15日に熊本に到着し、27日朝に熊本城の大広間で発病したという」と。
 今回の「真田丸」でも、三成の登場場面がわずかながらありました。処刑後も、三成が出てくるのは喜ばしいことです。三成が武断派七将による襲撃事件の責任を問われて佐和山に隠居する際、三成が清正を呼んで、「もし私が志半ばで倒れたら、豊臣家のことをおぬしに託す。命に代えても秀頼様をお守りしろ」というところです。以前、三成が清正を呼び出す場面はありましたが、その時は話の内容は示されていませんでした。二条城で秀頼が家康に会いに行く時に付き添う清正がその場面を思い出すという趣向でした。むろん、清正と三成のこういう会話の場面はフィクションですが、豊臣家のことを共に考えていたのは事実でしょう。

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