関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1737 旅行記79東北10 長勝寺の満天姫の御霊屋・満天姫の事績と三成一族との因縁

<<   作成日時 : 2016/09/29 10:31   >>

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写真は弘前の長勝寺にある、家康の養女で津軽信枚の正室として嫁いだ満天姫の御霊屋を18日に撮ったものです。杉山家当主、息子さんと最勝院・弘前八幡神社で別れてから、訪ねました。
 長勝寺には、御霊屋が五つ並んでおり、津軽為信らの藩主に交じって、満天姫の御霊屋があります。家康の養女とあって葵の紋が付いており、藩主並みの扱いがされています。
 杉山丕氏の「関ヶ原の戦いで敗れた三成の子孫と津軽」(『あおもり草子 特集 石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)の中で、満天姫の業績として、辰姫の生んだ「信義を、嫡子として育て、信枚もこれを幕府に認めさせ」たこと、「姪の富宇姫(弟松平泰久の娘)を、信義の正室として迎え、津軽家の安寧をおもいはかっ」たこと、「家康を祭った、東照宮神社を、全国諸藩に先駆けて建立した」ことなどが挙げられています。
 満天姫は最初福島正則の養嗣子・正之に嫁ぎましたが、この婚姻については、秀吉の遺命に背くものとして、他の四大老や三成たち五奉行たちが家康を糾弾しますが、前田利家が死に、三成が蟄居した後、この婚儀は家康の思惑通り実施されます。しかし、正之が亡くなったため、満天姫は実家に戻りますが、その後津軽家に再嫁するわけです。その際、子の直秀を連れてきますが、信枚は弟として直秀を受け入れ、後に家老の大道家の婿養子となります。
 しかし、直秀は改易された福島家の再興を願い、幕府に直訴しようとしたため、直秀は満天姫との別れの杯を飲み干した直後、苦しんで絶命したということが、杉山氏の同書で記され、満天姫は「我が子の命を奪って、津軽家を守った」と指摘されています。
 このように見てくると、満天姫と三成や辰姫との世代をまたがった因縁の深さが感じられますが、満天姫が津軽藩存続のために力を尽くした点は、大いに評価できます。
 長勝寺は案内の人が付き、庫裏や本堂を回りましたし、御霊屋の説明もありました。寺の由緒書には次のようなことが記されています。
 「長勝寺は大永6年(1526)に西郡種里村にて没した父大浦光信の菩提のために盛信が種里に一寺建立。法名から長勝寺と号す。種里の太平城からとって太平山の山号をつけたと云う。其の後為信が大浦に移し、文禄年間堀越に、更に慶長15年津軽藩の菩提寺としてこの地に移した。此処は遠く岩木山を背にして西方断崖絶壁で下を岩木川が流れ、東に折れて高地の北廻り自然の濠をなし、遥か南方には土淵川が流れている要害の地で、築城の際第一候補であったが余りに要害堅固なため時の幕府はこの場所を許可しなかったと云う。若し本城危い時には第二の城郭として城主がこの地にのがれて来ると云う説が伝わっている」などと。
 抜群の立地に長勝寺が建立されていたこと、津軽家が長勝寺を重んじていたことがよくわかります。

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