関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1712 小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」3  早くから対立はあったのか

<<   作成日時 : 2016/09/03 10:14   >>

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小和田哲男氏「武断派はなぜ三成を憎んだのか?」(『歴史人』9月号所収)の中で、三成ら吏僚派と加藤清正・福島正則ら武断派との軋轢が、朝鮮出兵以前からあったように記されています。天正16年4月15日の聚楽第行幸の際、秀吉家臣団のトップに従ったのが三成であることに、武断派武将らにとってはおもしろくなかったと思われると述べられていますが、彼らの心中はわからないものの、吏僚派と武断派と対立が以前からあったという捉え方に基づくものです。
 小和田氏の同書では、秀吉が三成を評価していたことがわかる点として、兵站奉行としての働き、諸大名の所領の一部にある秀吉蔵入地の代官を務め、諸大名とのパイプ役を果たしたこと、都市政策を中心的に推進し、堺奉行を務め、博多の復興を進めたことなどが挙げられています。
 それらの点は確かにそうなのですが、それで三成の武断派たちの嫉妬を買ったりおもしろくなかったと思ったりするのは、朝鮮出兵で軋轢が生じ、関ヶ原の戦いで敵味方に分かれたという結果から見た捉え方ではないでしょうか。小和田氏の同書には、さすがに武断派=北政所派、吏僚派=淀殿という見方はされていませんが、こういう図式的な捉え方は検討し直す必要性があると感じました。
 小和田氏の同書では、文禄の役で、清正と三成の決定的な対立があったというふうに捉えられていますが、三成が清正や黒田官兵衛のことを秀吉に讒言したという従来からの見方が踏襲されているためです。むろん、文禄の役で、三成と清正の間に全く軋轢がなかったわけではなく、その点は熊本日日新聞社発行の「加藤清正の生涯」でも、三成が清正に早く漢城に戻るように言ってもなかなか応じなかったということからもわかりますが、決定的なものではなかったはずです。
 小和田氏の同書には、加藤清正は講和交渉に従事していなかったように描かれていますが、実際には清正も別ルートで講和交渉に当たっていたことが、「加藤清正の生涯」で指摘されています。すなわち、「朝鮮側から派遣された松雲大師は文禄3年4月、清正が在陣していた西生浦倭城を訪問。清正側の通訳兼外交官だった本妙寺(現熊本市)の僧・日真を通じて数回会談している」と。
 さらに「行長の交渉を知った清正は『太閤様の要求を曲げて、何を勝手なことを』と憤慨し、行長を非難している。しかし秀吉の本音は清正の思いとは別のところにあり、日明交渉は秀吉の意向を受けた行長の主導で進められていく」とも記されています。
 こういう講和交渉の行き違いが、行長と清正の対立を生んだということはあると考えられますが。

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