関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1738 旅行記80東北11 長勝寺の三門・強力なリーダーシップを発揮した津軽信義

<<   作成日時 : 2016/09/30 18:19   >>

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 写真は長勝寺の三門を18日に撮ったも のです。津軽藩二代藩主の信枚が寛永6年(1629)年に建立しました。奥に見えているのが本堂ですが、本堂も信枚が慶長16年(1620)に造営しました。書院造の建物です。
 向かって右側に小さく嘉元鐘が写っていますが、嘉元元年(1306)に鎌倉幕府執権の北条貞時が寄進したものです。その奥に庫裏の一部が写っていますが、庫裏は文亀2年(1502)に津軽の祖の大浦光信が岩木山麓賀田に建築した大浦城の台所を移築したものです。津軽為信は、大浦為則の娘と婚姻し、為則の婿養子となります。
 津軽家藩主や満天姫の御霊屋は、写真に向かって左側の奥にあります。
 長勝寺には、明治初めの廃仏毀釈の際、岩木山に捨てられた仏像を集めた千体仏も安置されていました。
 長勝寺は禅林街の一番奥にあり、両側に三十数寺の禅寺が並んでおり、荘厳な印象を受けます。
 長勝寺には、三代藩主信義の御霊屋もありますが、信枚の長男であるものの、生母が辰姫であったために、寛永10年(1633)10月、藩主として初めて弘前入りした時、「側近の船橋半左衛門と老臣の間で、一悶着あった」ことが、本田伸氏の「津軽に生きた三成の血族」(『あおもり草子 特集石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)で記されています。しかし、「その後の信義は家中対立の危機を乗り越え、強力なリーダーーシップを発揮した。強権的・独善的という批判はあったものの、治水や新田開発、尾太鉱山の開鉱、牧場の設置など多くの業績を挙げた」とも記されています。信義は恐らく自分が三成の血を引いていたことを知っていたでしょうし、それだからこそ、「強力なりーダーシップ」を発揮した面があったのではないでしょうか。
 もっとも、信義と徳川家との関係が薄れることはありませんでした。信義が妻に迎えたのは、徳川家臣である松平泰久の娘であり、泰久は満天姫の弟でした。
杉山丕氏の「関ヶ原の戦いで敗れた三成の子孫と津軽」(『あおもり草子 特集石田三成の縁 津軽関ヶ原二』所載)には、津軽家と徳川家が結んだ姻戚関係として、二代信枚(むろん、正室は家康の養女の満天姫)、三代信義、四代信政、五代信寿、七代信寧が挙げられ、「徳川家と円滑な関係を保つ」と記されています。
 しかし、忘れてはならないことは、津軽家は徳川家と良好な関係を築きながらも、江戸時代ずっと、三成の次男の重成(杉山源吾)が大坂から持ってきた秀吉の座像を弘前城の館神に安置して祀ってきたことです。豊臣家に対する恩義をずっと持ち続けてきたわけで、津軽家は建前と本音を巧みに使い分けてきたという感じがします。満天姫が、秀吉の木像が安置されていることを知っていたのかどうか気になりますが、知っていたのなら、彼女の胸中も複雑なものがあったに違いありません。 
 
 

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