関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1713 大河ドラマ探訪426「真田丸」92 三谷幸喜氏「石田三成の『ミニ関ヶ原』」

<<   作成日時 : 2016/09/04 11:54   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第34回「挙兵」は、三成が家康襲撃計画を断念し、しばし謹慎ののち、政務に復帰するものの、前田利家の直後に起こった武断派七将による三成襲撃事件が起こり、その仲裁に当たった家康によって、三成は奉行職を解かれ、佐和山に蟄居させられていました。その後、家康は「天下人」のように専横を極めるわけですが、「真田丸」では、家康が前田利長を家康暗殺を謀った罪で屈服させる場面は描かれず、いきなり話は一年後に飛び、直江状に怒った家康が、会津攻めを決定し、家康が大坂を発った後に、大坂城には宇喜多秀家たち、反家康勢力が結集して立ち上がり、別の間には三成が控えており、三成が仕掛けたことがわかるという展開でした。
三成が家康を襲撃しようとした件ですが、太田浩司氏の「大河ドラマ『真田丸』を三倍楽しむ講座 第二回」では、そういう計画があったと記されているのは、「当代記」だけだということが指摘されていました。
 三成の家康襲撃未遂事件を「真田丸」で描いたことについては、9月1日付の朝日新聞に掲載された「三谷幸喜のありふれた生活」の「石田三成の『ミニ関ヶ原』」で詳しく説明されています。
 すなわち、「僕としてはお馴染みのシーンはあまり描きたくない」、「この時期の三成がらみのエピソードで、これまであまりドラマでは描かれて来なかったものはないかと調べてみた」結果、「格好の事件があり」、それが「徳川家康襲撃未遂事件」であり、「徳川派と反徳川派が、伏見の街の真ん中で武力衝突しかけた、ミニ『関ヶ原の戦い』」だったと。
 両派が衝突しかけたのは事実だと思いますが、拙ブログ記事でも前に述べたように、三成が積極的に家康を襲撃しようとしたという捉え方には私は懐疑的です。ましてや、その責を取って三成がしばらく謹慎していたという事実は確認できません。しかし、ドラマとしてはここまで家康を襲撃するということが大ごとになったわけですから、三成が何の罪に問われないのも不自然だから、そういう描き方をしたのではないでしょうか。
 さらに、その後に起こった武断派七将による石田三成襲撃事件の際も、武断派たちは家康襲撃を三成の罪の一つに加えていましたが、ドラマの流れとしては仕方ないとはいえ、納得できないものを感じます。
 前田利長による家康暗殺事件のことも、三成が大谷吉継に挙兵を持ちかけるところも「真田丸」では描いていないこと(追記 三成が吉継が挙兵を持ちかける場面は次の回で出てきました)も、三谷氏が「お馴染みのシーンはあまり描きたくない」からだと思われます。
 三成が宇喜多秀家たち反家康方の武将によって大坂城に迎え入れられるという演出も、その線に従ったものだと思われますが、挙兵した三成が実際に大坂城に入ったのは、伏見城攻めの督戦に行った後の、7月30日のことではないかと考えています。
 

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