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zoom RSS 大河ドラマ探訪446「真田丸」113 幸村に改名?片桐且元が信繁に入城を促す?

<<   作成日時 : 2016/10/14 22:36   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第40回「幸村」は、信繁が流されていた九度山に、明石全登、さらには片桐且元が現れて、大坂入城を促し、信繁は最初は断るものの、きりに勧められ、秀吉をはじめ、今まで関わってきた人々の姿(そのなかには三成や信繁の姿もありました)や言葉を思い出して、出陣を決意し、「幸村」という名を新たに選ぶという展開になっていました。
 信繁が自ら「幸村」と名乗ったかどうかについては、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、「一般に知られた『幸村』は江戸時代の創作である。最晩年まで、信繁を称しており、幸村を用いた形跡は今のところ確認できない」と記されています。2日に大阪歴史博物館で行なわれた木土博成氏の講演「真田丸」でも、信繁の書状には、幸村と記した例はなく、「幸村」という名は後世の創作だと指摘されていました。
 くじびきで「幸村」という名を選ぶ(「幸」は信幸が捨てた名であり、父から受け継いだ名)というのは、三谷幸喜氏の創作ですが、くじで物事を決めるということ自体は、当時少なくなく、「真田丸」で描かれていた「鉄火起請」もそうでした。
 「真田丸」では、片桐が、大坂の陣に至る経緯を信繁に語るという役回りを与えられていました。片桐が信繁に大坂城に入ることを勧めるというのは、少々変だと感じました。且元はドラマで描かれていたように、大坂方に家康との内通を疑われ、大坂城を去った人物であり、大坂の陣では、家康側についていますから、信繁に大坂入りを促すはずがありません。
 片桐の動向については、本多隆成氏の「定本 徳川家康」(吉川弘文館)には、「淀殿の血判起請文による呼び出しにも応ぜず、10月1日には一族を引き連れて大坂城を退去し、摂津茨木城(茨木市)に立て籠もった」とあります。
 一方、信繁の九度山出発ですが、丸島氏の同書には、次のように記されています。
 すなわち、信繁のもとを訪れたのは「豊臣秀頼の使者」であり、使者は当座の支度金として黄金200枚と銀30貫目を持参したという(『駿府記』)。信繁はこれに応え、慶長19年(1614)10月7日(『高野春秋』)、むまたは9日(『左衛門佐君伝記稿』)に九度山を発し、13日に大坂に入城した(『本光国師日記』)」などと。
 片桐且元の大坂城の退出が、家康にとっては開戦する口実になったことについては、本多氏の同書に、「且元は秀頼の家老であったというだけではなく、関ヶ原合戦後には大和で加増されて2万8000石で大和竜田(奈良県斑鳩町)城主となり、摂津・河内・和泉の国奉行を務めるなど、家康の信任も厚かったからである」と指摘されています。
 
 

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