関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 受贈御礼 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきか」1 家康は関ヶ原当日夜に佐和山に

<<   作成日時 : 2016/10/15 17:00   >>

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 白峰旬氏から玉稿を多数ご恵贈賜りました。この場を借りて厚くお礼を申し上げます。
 このうち、愛知中世城郭研究会発行の「愛城研報告 第20号」に発表された「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきかー拙著に対する藤本正行氏による御批判への反論ー」には、関ヶ原の戦いに対する白峰氏の新見解が改めて示されています。
 拙書というのは、白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)のことであり、藤本氏の批判というのは、「関ヶ原合戦の松尾山城と大谷吉継の陣営」と題する論考ですが、この藤本氏の論考は、私自身、読んでいません。しかし、白峰氏の論考には、藤本氏の見解のうち問題となっている点について詳しく書かれていますので、藤本氏の論考の内容をうかがい知ることができます。
 白峰氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」では、慶長5年9月15日付の伊達政宗宛徳川家康書状に「家康が石田三成の居城、佐和山に著馬(着馬)した」とあることから、その夜は家康は大谷吉継の陣営に泊まったとする通説を疑問視されているのですが、藤本氏はこの記述について、「東北地方で西軍と対峙している政宗を安心させ、やる気を出させ、自陣営に引き止めるために、戦果を誇大に吹聴した」と解釈されています。しかし、白峰氏は「家康が山中の大谷吉継の陣営に泊まったという一次史料が出てこない限り」、文字通りに家康の記述通りに捉えるべきであり、藤本氏の解釈とは「直結するとは思えない」と指摘されています。
 また藤本氏は、吉継が「他の諸将よりも戦場に早めに着いて(通説では9月2日か3日)、陣地構築に着手したはずの大谷吉継の陣営は、防御性も居住性も多方面との連絡も、他の諸将のそれと比べて抜群に優れていたはずである」と述べられていますが、白峰氏は「大谷吉継が9月2日か3日に着いた、とする通説は一次史料では全く確認できない」、よって藤本氏が「防御性も居住性も」云々と述べられていることもそう言えるか「不明である」と指摘されています。
 オンライン三成会の「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・関ヶ原」の章では、「9月2日大谷吉継が関ヶ原山中に布陣し」たと記しましたが、確かにそのことは一次史料では確認できず、通説に基づいた記述だと気づかされました。また外岡慎一郎氏の「大谷吉継と西軍の関ヶ原合戦 関連年表(慶長5年、1600)」にも、「9月3日 関ヶ原(宮上)に着陣」と記されていますが、これも一次史料に基づいたものではないと思われます。
 「三成伝説」の中で、西軍の陣跡には「土塁の跡も残っている」と記しましたが、これは三池純正氏の「義に生きたもう一人の武将 石田三成」(宮帯出版社)で指摘されていることであり、関ヶ原での戦いの準備は以前からされていたという説の根拠の一つです。しかし、その準備したのが大谷吉継でないとしたら、誰がしていたのかということも新たに考えなくてはなりませんし、そもそも、三池氏が述べている西軍の陣跡(「三成伝説」でも通説に従って陣跡を紹介しています)は従来通りの説に基づいたものですから、土塁の問題も検討しなおす必要性があるように思いました。
 

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