関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1745 白峰旬氏「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきか」2 笹尾山布陣は俗説

<<   作成日時 : 2016/10/16 21:16   >>

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 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきかー拙著に対する藤本正行氏による御批判への反論ー」(愛知中世城郭研究会発行の『愛城研報告 第20号』所載)の中で、慶長5年9月15日付の伊達政宗宛徳川家康書状をめぐって、藤本氏は「石田軍が布陣したのは戦場の北寄りの笹尾山付近」と記されていますが、白峰氏はそのことは「一次史料では全く確認できず単なる俗説にすぎない」と指摘され、三成が笹尾山に布陣したことを否定した見解として、高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」、乃至政彦氏の「戦国の陣形」「関ヶ原の陣形」が挙げられています。高橋氏の同書については、以前拙ブログ記事で取り上げました。
 今や笹尾山は三成の聖地のような存在になっています(今日も関ヶ原合戦祭に参加し、笹尾山で山本耕史さんが「真田丸」の時と同じ扮装をしてトークイベントをし、その後、甲冑姿になってやはり笹尾山で布陣パフォーマンスをして、さらに武者行列に加わるところなどを見てきましたが、このことについては改めて後述します)が、三成が関ヶ原の戦いの際、ここに陣を置いたことが根拠のないものだという見解を知って、関ヶ原の戦いというものを根本的に考え直さねばならないと思っています。すでに白峰氏は「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)の中で、従来の関ヶ原合戦の布陣図には歴史的根拠がないこと、主戦場は関ヶ原ではなく、山中だったこと、家康が小早川秀秋に向かって発砲し、寝返りを促したとする、いわゆる「問い鉄砲」は家康の活躍を演出するために創作されたものだということなどが指摘されていますし、そのことは拙ブログ記事で取り上げました。
 また白峰氏の同書では、慶長5年10月7日付の本多正純宛池田輝政書状写についての藤本氏の解釈の問題点が指摘され、批判が加えられていますが、その詳細は省きます。ただこの書状について、結論的に次のように述べられています。
 「石川貞清は山中を経て上方へ行こうとして関ヶ原の戦いに間にあわなかったが、これは池田輝政の指示によるものであって、曲事ではないので、そのことを本多正純から家康に取り成してほしい、ということをこの書状で池田輝政は述べている」と。
 文中に「山中」と出て来ますが、「一次史料はもちろん後世の史料さえ、『山中』を主戦場としたり、石田や宇喜多をはじめ西軍主力の諸将がここに布陣したことを示すものが見当たらない」との藤本氏の指摘に対して、白峰氏はその反証となる史料として4点示されています。このうち3点は一次史料であり、そのうち9月晦日付の留守(伊達)政景他5名宛伊達政宗書状、同日付の石川昭光・石川義宗宛伊達政宗書状には、「9月14日の夜に大垣城から移動した石田三成などが美濃の山中というところへ陣取りしたことが明記されている」と指摘されています。さらに9月19日付の松沢喜右衛門尉他2名宛の保科正光書状写には、「美濃の山中というところで合戦を遂げた」と記されており、「『山中』を主戦場」として記したものだと指摘されています。

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