関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1746白峰旬氏「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきか」3 大軍ではなかった三成方

<<   作成日時 : 2016/10/17 10:43   >>

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 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきかー拙著に対する藤本正行氏による御批判への反論ー」(愛知中世城郭研究会発行の『愛城研報告 第20号』所載)の中で、「山中」を「ある特定の呼び名と限定的に考える必要はな」く、「関ヶ原の戦闘も含めて、合戦全体を包括的に『山中合戦』と呼んでいた」という藤本氏の指摘に対しても、「関ヶ原の戦い直後から『関ヶ原』と『山中』の呼称の使い分けが行われている」と白峰氏は反論を加えられています。
 すなわち、「『山中』の呼称が使用される一方で、「関ヶ原」と記されている用例として、9月17日付の松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署状写、9月19日付の大関資増宛浅野長政書状写、9月19日付の林正利宛小早川秀秋書状(感状)、9月24日付の小早川秀秋宛徳川家康書状が挙げられています。
 このような使い分けが行われた理由として、白峰氏は「『関ヶ原』と『山中』の2箇所で戦いがおこなわれ、『山中』の方が主戦場であった」からだと指摘されています。
 このことについては、白峰氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」の中で詳しく述べられていることが記されていますが、「開戦時に大谷吉継は山中に布陣していたのではなく、関ヶ原に移動していた可能性や、小早川秀秋も開戦時には松尾山城に布陣していたのではなく、関ヶ原に移動して布陣した可能性」、「関ヶ原において、大谷吉継の軍勢は、家康方軍勢と、裏切って背後から攻撃した小早川秀秋の軍勢によって挟撃されて壊滅したことを指摘した」とその内容が要約されています。
 白峰氏のこの玉稿も寄贈していただき拝読しましたので、その具体的な内容については拙ブログで改めて取り上げたいと思います。しかし、関ヶ原の戦いの実態がこのようなものであったとすれば、今までわれわれが思ってきた様相とは随分違ってきますし、本当にそうなら、そのように書き換えなければなりません。
 従来との違いはそれだけにとどまらず、「大垣城を出て山中へ移動して布陣した石田三成諸将の兵力を『大軍』と見なしている」藤本氏の見解(これは藤本氏だけでなく、大抵の者がそう認識しているのではないでしょうか)に対しても、異議が唱えられています。すなわち、「戦いに実際に参戦した島津家家臣の史料内容から検討すると、両軍にはかなりの兵力差があったことがわかるので、山中に布陣した石田三成方諸将の兵力は、通説で言われているような大軍でなかった可能性が高い」と。このことは白峰氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」で論じられていることも明記されていますが、この玉稿も、「愛城研報告 第20号」に掲載されており、私も拝読しました。

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