関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 三成の実像1747白峰氏「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきか」4石田方は山中、秀秋は関ヶ原

<<   作成日時 : 2016/10/18 10:59   >>

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 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い(本戦)をどのように考えるべきかー拙著に対する藤本正行氏による御批判への反論ー」(愛知中世城郭研究会発行の『愛城研報告 第20号』所載)の中で、藤本氏が(慶長5年)9月17日付の吉川広家自筆書状案の引用箇所について意訳したところを、白峰氏が検討し、その誤読部分が指摘されています。その詳細は省略しますが、藤本氏の誤読部分が次のように訂正されています。
 「山中への先手(の予定)は、福島正則、黒田長政、そのほか加藤嘉明、藤堂高虎という上方より(上杉討伐のために東国へ)下ってきた諸将であり、(これらの諸将が)小早川秀秋(の内応を)手引きしているので、(石田三成方諸将を)中に追い立てて、(これから合戦をして敵[石田三成方諸将]を)討ち果たすつもりである」と。
 これによれば、あくまで予定ですが、従来、関ヶ原に布陣したとされる福島、黒田、加藤、藤堂たちが「山中への先手」と記されています。この「吉川広家自筆書状案には『関ヶ原』という地名は一箇所も出てこないので『山中』が『関ヶ原』とは別の特定の場所を指していることは明らかである」と記されています。
 この「関ヶ原」と「山中」の使い分けは、家康もしていることが指摘されています。すなわち、9月15日付の伊達政宗宛徳川家康書状には、「今十五日午刻、於濃州山中及一戦、備前中納言・島津・小西・石治部人衆悉討捕候」と記し、9月24日付の小早川秀秋宛徳川家康書状では「今度関ヶ原御忠節之儀、誠感悦之至候」と記していることが挙げられ、「この家康書状における書き分けは、 家康方軍勢が石田方主力と戦った主戦場は『山中』であり、小早川秀秋が戦ったのは『関ヶ原』であった、ということを意味している。このことは同時に、小早川秀秋が開戦時に松尾山に布陣しておらず、関ヶ原まで移動していたことを示すものである。よって、小早川秀秋が開戦時に松尾山に布陣していたということは一次史料で確認できず、そうしたこれまでの固定観念を排除して考える必要がある」と指摘されています。
 さらに小早川が戦ったのが「関ヶ原」で戦ったことを示すものとして、9月19日付の林正利宛小早川秀秋書状(感状)に「今度、於関ヶ原表、無比類働手柄之段」などという記述が挙げられています。
 こうことからすれば、小早川が松尾山、三成が笹尾山に布陣していたという従来の捉え方はおかしいことがわかりますし、戦いの経緯、場所についても従来の捉え方にも問題があることが認識できます。
 白峰氏は「島津家家臣史料の内容からは、石田方の主力諸将は近距離にある程度固まって布陣したことは明らかである(そのことが即時に敗北した原因にもなっていると考えられる)」と指摘されていますが、そのことを詳しく論じた白峰氏の論考「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」については、改めて拙ブログ記事で取り上げたいと思います。 

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