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zoom RSS 石田三成の実像1740 大河ドラマ探訪434「真田丸」101 信繁と秀次の娘の子の「御田の方」1

<<   作成日時 : 2016/10/02 18:45   >>

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 「真田丸」では、真田信繁は秀次の娘を側室にしたものの、ルソン助左衛門を通じてルソンに逃すという描き方がされ、その後の姿については今のところ描かれていません。
 実際は、信繁と秀次の娘の間には「おたあ」という女子が生まれ、彼女は後に佐竹義宣の弟の宣家に嫁いでいます。このことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも記しました。宣家は岩城宣隆と名を改め、「おたあ」は、岩城家の世継ぎを生んだと。秀次の娘が救われたのは、三成の存在を抜きにしては考えられないという白川亨氏の見解も取り上げています。信繁が秀吉の馬廻衆であったということがわかったのは最近の研究によってですが、秀次の娘の命が救われたのは信繁と三成の連携によるものだと云えます。
 「おたあ」は「於田」と書き、「おでん」とも読むことが、白川亨氏の「石田三成とその一族」(新人物往来社)に記されています。この「おたあ」について、秋田へ行った折、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の執筆者の一人である、秋田在住の佐藤誠氏から、いくつか新たな資料をいただきました。そのうち、佐々木祐三氏の「顕性院(けんしょういん)・御田(おでん)の方について」という文書があり、それでいろいろな知見を得ました。
 まず、「御田の方」の本名は「直(なお)」と云い、「なほ」という表記もあることが記されています。また後に「御田の方」と呼ばれたのは、本来は「『真田の方』となるはずが、将軍秀忠に遠慮をし『真』の字をとった」と説明されています。
 大坂冬の陣では、「御田の方」は父の信繁と母の隆清院(りゅうせいいん)と共に入城しましたが、夏の陣の直前に、信繁の命により母と「御田の方」は京都に送られ匿われます。母は、「御田の方」の弟となる幸信を出産します。
 佐藤氏に同じくいただいた資料に、岩城町妙慶寺史蹟奉讃会発行の「妙慶寺史蹟案内」がありますが、その「顕性院殿の由来」の中に、大坂を出た母と「御田の方」について、「曽祖母に当る羽柴瑞竜院殿日秀大尼(秀吉の姉)のもとに身を寄せ戦雲を窺って居りました」と記されています。 「御田の方」は、夏の陣の後、徳川方に捕らわれ、人質として秀忠の大奥に出仕し、3年後、京都の母の元に戻ることを許されます。
 このことに関して、「妙慶寺史蹟案内」の「顕性院殿の由来」の中では、次のように記されています。
 すなわち、大坂落城後、「母娘は身を町人に扮し転々として居を移し難を逃れましたが遂に捕れの身となり、徳川幕府に連行致されました。流石の徳川家康公も敵将真田幸村の愛娘と聞いて驚き徳川方の謀将真田伊豆守信之公(幸村の兄)のはからいにより人質として大奥に勤めることになりました。こうして奥御殿に勤むること3年、世は次第に太平に傾き秀忠公も可憐な小女の勤勉さに感激しその労を褒賞して一旦母のもとに帰京を許しました」と。
 

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