関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1751大河ドラマ探訪447「真田丸」114 「真田丸」展4 津軽「関ヶ原合戦図屏風」

<<   作成日時 : 2016/10/22 17:50   >>

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 大阪歴史博物館で開催されている「真田丸」展で、同館所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」が展示されていましたが、家康の養女・満天姫が津軽藩二代藩主の信枚に嫁ぐ際、持参したものです。すでに信枚の正室であった三成の三女・辰姫に見せびらかすような行為ですが、辰姫は大舘に暮らしていましたから、この図屏風を見る機会はなかったのではないでしょうか。満天姫は信枚の正室になり、辰姫は側室に降格されます。
 それは、ちょうど、本多忠勝の娘である小松姫が家康の養女という資格で信之に嫁ぎ正室となったのに合わせて、「真田丸」では、それまでの妻であった「こう」が離縁され侍女として仕えるという描き方がされていたのと重なります。もっとも、侍女となるのはありえないと太田浩司氏の「真田丸」講座で指摘されていました。「こう」は、真田幸隆の長男の娘であり、本来長男が真田家の跡を継ぐはずだったのを、次男と共に戦死したために、三男の昌幸が相続しました。「こう」は真田家の嫡流であり、信幸は彼女を妻にすることによって、真田家を継ぐ正当性を示したわけです。
 さて、この「関ヶ原合戦図屏風」について、「真田丸」展の図録の解説には、前半、次のように記されています。
 「慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦を描いた代表作。右隻には徳川家康の本営入りなど決戦前日(9月14日)の様子が中心的に描かれ、左隻には翌15日の合戦の様子が克明に描写されているが、その左半分では敗色濃く退散する西軍の姿が見られる」と。
 私が見たのは右隻の部分だけでした(左隻は後期に展示)が、最古の関ヶ原図屏風であり、他の図屏風はすべて江戸時代後期のものだけに、貴重です。満天姫が津軽藩に輿入れしたのは、慶長18年(1613)ですから、「関ヶ原合戦図屏風」はそれ以前に制作されたことになります。
 「真田丸」展の図録では、関ヶ原合戦の詳しい様子はよくわかりませんが、藤本正行氏の「『関ヶ原合戦図屏風』で読み解く 戦場の二日間」(『歴史群像シリーズ 戦国セレクション 決戦関ヶ原』【学研】所載)には、各場面ごとに拡大されて、それぞれに解説が加えられています。
 興味深いのは、すでにこの「関ヶ原合戦図屏風」に、味方に向かって発砲している小早川の鉄砲隊が描かれていることであり、小早川の裏切りが物語られています。もっとも、家康が小早川隊に向かって鉄砲を撃ちかけ、裏切りを促している、いわゆる「問鉄砲」の場面は描かれていません。「問鉄砲」は、家康の活躍を演出するために創作されたという白峰旬氏の見解があります(『新解釈 関ヶ原合戦の真実』【宮帯出版社】)が、「問鉄砲」の話はこの「関ヶ原合戦図屏風」の制作から、もっと後世に創作されたと考えられます。 白峰氏の見解では、創作されたのは江戸時代中期と指摘されています。

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