関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1752 大河ドラマ探訪448「真田丸」115 「真田丸」展5 「関ヶ原合戦図屏風」2

<<   作成日時 : 2016/10/23 10:51   >>

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 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展で展示されている、津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」ですが、江戸時代初めに描かれているだけに、実際に戦いが行われた時とはあまり年数が経っていません。他の図屏風は、江戸時代後期に描かれていますから、決定的に時期が異なっています。それだけに、合戦の実相を後世のものより正しく伝えていると云えますが、家康(あるいは福島正則)が描かせたものですから、自分たちに都合のよいように描いている可能性もあり、その点は考慮して見てゆく必要性があります。
 昨日付の拙ブログ記事でも取り上げたように、藤本正行氏の「『関ヶ原合戦図屏風』で読み解く 戦場の二日間」(『歴史群像シリーズ 戦国セレクション 決戦関ヶ原』【学研】所載)には、各場面について取り上げ解説されています。
 それによれば、14日の様子について、右隻二扇中段に、西軍の拠点大垣城が描かれていますが、天守は三層で、城内に宇喜多秀家の旗印が掲げられていること、「無人の城下を西軍の軍兵が杭瀬川の戦場へ駆けてゆく」ところが描かれていると解説されています。三成の家紋や旗印はありません。
 右隻五、六扇中段には赤坂の東軍陣地が描かれ、「中央が赤坂宿の町並み。その左の小丘が家康の本陣の岡山で、陣屋と徳川家の白い幟旗が見える。手前には水堀と塀で囲んだ外構え。その内側に陣屋や馬屋が並ぶ。右下の櫓門から、東軍の将兵が杭瀬川へ押し出している」などと解説されています。
 関ヶ原合戦の前日に行われた杭瀬川の戦いについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・関ヶ原」の章でも従来からの説に基づいて少し触れましたが、高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」で否定的な見解が示されています。
 すなわち、「巷間に伝わる『杭瀬川の戦い』は一次史料にはいっさい出てきません。初出文献をさがしてみましたが、江戸時代初期に成立した軍記のなかには見当たりませんでした、どうやら後になってから作られた話であるようです」と。
 この点に関して、白峰旬氏からいただいた玉稿「関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証するー高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を拝読してー」(別府大学史学研究会『史学論叢』)の中で、この高橋氏の見解について、「合戦当日の戦況を記した島津家家臣の史料である『山田晏斎覚書』(『旧記雑録後編三』)に9月14日のこととして『石田殿衆、赤坂之軍衆ニ掛合、敵三十人程打取候由、石田殿より注進候事』と記されているのが杭瀬川の戦いに該当する可能性はある」と指摘されてます。
 「三成伝説」で紹介したように、杭瀬川の戦いで死んだ野一色頼母の兜塚や、勝利した三成が首実検をしたと伝えられる遮那院跡が大垣に残っていますから、そういう伝承も無視はできません。 
 
 
 

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