関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1754大河ドラマ探訪450「真田丸」117「真田丸」展7 「関ヶ原合戦図屏風」4

<<   作成日時 : 2016/10/25 10:59   >>

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 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展に、展示されている、津軽屏風と呼ばれる「関ヶ原合戦図屏風」ですが、拙ブログ記事でも取り上げているように、藤本正行氏の「『関ヶ原合戦図屏風』で読み解く 戦場の二日間」(『歴史群像シリーズ 戦国セレクション 決戦関ヶ原』【学研】所載)には、各場面について取り上げ解説されており、その続きです。
 関ヶ原合戦の当日の描写ですが、宇喜多勢を破る福島勢が描かれ、次のように解説されています。
 「決戦場の天満山付近の情景。屹立する福島勢の『山道』の幟旗と、散乱する宇喜多勢の『白餅』の幟旗が勝敗を印象づける。前掲の福島の陣の目立ち方といい、福島勢の活躍を印象づけるこの場面といい、屏風と福島家(満天姫の嫁ぎ先でもある)との特別な関係を想像させる」と。
 「前掲の福島の陣」とあるのは、決戦前日の赤坂の東軍陣地の山上に、「幟旗を立て白黒段々の幕を廻らせた、ひときわ目立つ福島正則の陣」と解説されているのがそれです。
 満天姫は家康の養女として福島正則の子の正之に嫁ぎましたが、正之が亡くなったため、後に津軽信枚に嫁ぎます。それまで信枚の正室であった三成の三女・辰姫を側室に降格させての縁組みでしたが、この「関ヶ原合戦図屏風」は、福島正則の活躍をテーマにして描かれたものだという見解がありますが、私もそういう気がします。
 また「図屏風」では、西軍陣地を突破する東軍の姿が描かれていますが、藤本氏による解説では次のように記されています。
 「決戦当日の午後の状況である。西軍の戦線は、切岸(きりぎし・人工的な急斜面)と柵で表現されている。手前の小西行長の陣と、向こうの十文字の幟旗を立てた島津義弘の陣の間の虎口(こぐち・出入口)に、白い幟旗の家康の本隊が突入している。その後方から進撃する東軍の軍兵の中に騎馬の家康の姿も見える。西軍の陣屋は炎上中である」と。
 通説では、家康は陣場野にいましたから(最初は桃配山)、騎馬に乗って進軍するのは創作ではないかという印象を受けます。もっとも、通説による関ヶ原合戦の経緯自体に対して、白峰旬氏によって後世の創作であり、小早川秀秋は最初から東軍として参加し、戦いは短時間で決したこと、三成方軍勢は山中エリアに、大谷吉継は関ヶ原エリアに陣したという見解が示されています(三成方軍勢の布陣位置に関する白峰氏の考察については後述します)から、その見解に従って、この図屏風全体を見直す必要があるかもしれません。
 この図屏風では、小早川の鉄砲隊が発砲しているところは描かれているものの、鉄砲はあまり描かれていず、槍合わせが中心であり、援護は弓だけだと解説されています。関ヶ原の合戦の際、白兵戦が行われたということが一次史料に出てくることが、やはり白峰氏によって指摘されています。

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