関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1755 白峰旬氏「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」1

<<   作成日時 : 2016/10/26 00:34   >>

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 オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・関ヶ原」の章には、「史跡めぐりのモデルコース」を載せていますが、各陣跡の位置は通説に従っていますし、関ヶ原町観光協会発行の本「関ヶ原ー名所古跡ー」などを参考にしました。
 私は実際に各武将がその位置に布陣したと素朴に信じていましたが、そうではないことを、白峰旬氏の「新解釈 関ヶ原合戦の真実」(宮帯出版社)で知りました。さらに高橋陽介氏の「一次史料にみる関ヶ原の戦い」には、今の布陣位置になった経緯について述べられていますが、その記述は白峰旬氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)にも記されています。 
 すなわち、「現在の関ヶ原合戦の陣跡地の場所は、神谷道一氏著による『関原合戦図志』(明治25[1892]年5月)を参考に、岐阜県の役人たちが参加し、現地事情を様々に考慮しながら決めたそうです」と。
 これは「関ヶ原笹尾山交流館スタッフブログ」の2015年3月26日付「小関地区の陣跡ー薩摩池と史料をめぐって7」の記事に書かれていることが註に記されています。
この註には、この指摘はすでに高橋氏の同書でなされていることが記されていますが、高橋の同書では触れられていないその出典も明らかにされています。
 さて、白峰氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」には、こういう記述から、「現在の関ヶ原の戦いにおける諸将の陣跡地比定が慶長5年(1600)当時の一次史料によるものではなく、その信憑性という点で大いに疑義があるため、今後、再検討の余地が大幅にあることは自明である」と指摘されています。
 その上で、白峰氏は「関ヶ原の戦いに参戦した島津家家臣の史料(『旧記雑録後編三』所載)を検討することにより、石田三成方の軍勢の布陣について検討し」ています。むろん、この史料が「二次史料(後世の編纂史料)」であることを断っておられますが、「一次史料(同時代史料)からは、徳川家康方、石田三成方双方の軍勢の布陣について考察することは史料的限界がある」ためだと記されています。
 ところで、桐野作人氏は、「真説 関ヶ原合戦」(学研M文庫)【大幅に補筆改訂した「謎解き 関ヶ原合戦」(アスキー新書)】で、島津家家臣の史料などを検討して、関ヶ原の戦いにおいて島津義弘隊は二番備であり、参戦する前に小早川が裏切り戦いの大勢が決したという見解を示されており、そのことは「三成伝説」でも取り上げました。
 むろん、白峰氏の同書でも、島津家家臣の史料の検討から、島津義弘が二番備だったことが記されていますが、それだけではなく、三成方の布陣位置が従来のもとは全く違うことが指摘されています。
 

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