関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1756 白峰旬氏「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」2

<<   作成日時 : 2016/10/27 10:25   >>

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 白峰旬氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)には、島津家家臣史料から、次のようなことがわかると指摘されています(この論考では、島津家家臣史料の具体的記載が3ページにわたって記され、そこからわかる三成方軍勢の布陣の位置関係の記載が箇条書きにまとめられ、さらに矛盾する記載が除外され、整理されています)。
 「家康方の先手の軍勢は、宇喜多秀家と石田三成の陣(備)を突き崩してから、島津義弘の陣(備)へ攻めかかってきた、とあるので、宇喜多秀家、石田三成、島津義弘の各陣は距離的に離れておらず、ある程度密集して布陣していたと考えられる。そのため、ドミノ倒しのように、次々と石田三成方の諸将の軍勢の陣が崩れていったのであろう。
 時系列で考えると、(中略)9月15日早朝、真っ先に大谷吉継の陣が家康方軍勢の攻撃を受け激戦が展開されたが、裏切った小早川秀秋の攻撃を受けて大谷吉継の陣は壊滅した。」
 「大谷吉継が戦死したあと、宇喜多秀家、石田三成の陣が追い崩された」などと。
 ここには、三成方の従来の陣跡の位置や合戦の経緯とは全く違う姿が描かれています。島津家家臣史料からは、「先陣は宇喜多秀家、石田三成、島津豊久であり、それらの陣(備)の向きは東方に向いていた」「島津義弘は二番備であり、宇喜多秀家の陣の後方(西方)にあった」「島津義弘の陣の東方に石田三成の陣があったので、陣の向き(=東方)からすると、島津義弘の陣の斜め前方に石田三成の陣があったことになる」ことがわかると記されています。
 白峰氏の見解によれば、三成方が布陣したのは、関ヶ原エリアではなく、今までは吉継が布陣したとされてきた山中エリアであり、白峰氏の論考の最後に「関ヶ原の戦い(山中の戦い)概要図」に新たな布陣図が掲載されています。
 その図によると、山中エリアには、先備として北から小西行長隊、宇喜多秀家隊、石田三成隊、島津豊久隊が陣し、宇喜多隊の西側には島津義弘が二番備、豊久隊の西側に亀井玆矩隊が陣しています。対する家康方は先手として福島正則隊が宇喜多隊と、黒田長政隊が三成隊と向き合う形で布陣し、攻撃をかけています。
 このうち、小西隊は(先備か?)という但し書きが入っていますが、「長野勘左衛門由来書覚書抜」には、「石田三成・小西行長の人数(軍勢)が家康方の軍勢に向き合って、鉄炮の合戦をして、それから太刀打ちになり、激しい合戦になった時」などと記載されているものの、それ「以外は小西行長に関する記載はないので確定はできない」と指摘されています。
 

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