関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1757 白峰旬氏「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈」3

<<   作成日時 : 2016/10/28 10:35   >>

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 白峰旬氏の「関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈ーなぜ大谷吉継だけが戦死したのかー」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の「関ヶ原の戦い(山中の戦い)概要図」には、われわれが知っている従来の布陣図とは、全く異なる新たな布陣図が掲載されていますが、関ヶ原エリアでは、大谷吉継が布陣し、前から家康方軍勢の攻撃を受け、背後から小早川秀秋の攻撃を受けたと記されています。
 その図には、吉継は「開戦前に山中エリアから最前線の関ヶ原エリアへ移動して布陣」し、秀秋は「開戦前に松尾山城(松尾山エリア)から関ヶ原エリア(松尾山の前の小高い岡)へ移動して布陣」と記されています。
 「松尾山の前の小高い岡」は、「通説の布陣図で脇坂安治などの諸将が布陣したとされる位置[現岐阜県不破郡関ケ原町藤下]」と指摘され、その根拠となっているのは、島津家家臣史料の「某覚書」の中の次のような記載です。
 関東勢が「大谷吉継(の陣)へ声を発して攻めかかり、大谷吉継の軍勢を一町(約109m)ばかり突けさけた(ママ)ところ、また大谷吉継が関東勢を一町あとへ突き戻し、互いに二三度もみ合っていた時、大谷吉継陣の備のうしろの岡に備があった小早川秀秋が返り忠(裏切り)によって岡から真下に攻めおろし、大谷吉継の軍勢を残らず討ち取った」と。
 このことに関して、白峰氏の同書に、「開戦時に小早川秀秋が松尾山に布陣していたとする一次史料は管見の限りでは確認できない」と指摘され、「小早川秀秋が松尾山の山上(松尾山城)に布陣して動かなかった場合は周囲の戦況の変化が確認できないので、松尾山よりさらに前方(東方)に進出(移動して)布陣し、戦況の変化を十分確認したうえで、大谷吉継を背後から攻撃したと考えた方が整合的に理解できる」と記されています。
 この関ヶ原エリアでの、大谷吉継が家康方軍勢と小早川秀秋に挟撃されて、大谷隊が壊滅したのが、戦いの第一段階であり、山中エリアで家康方軍勢が三成方軍勢の主力本隊を先制攻撃で即時に追い崩したのが戦いの第二段階だということが、「関ヶ原の戦い(山中の戦い)概要図」にも白峰氏の同書の本文にも記されています。第二段階の時刻は、「巳の刻(午前10時頃)」であったと記されていますが、その根拠は上述の「某文書」に、次のような記載があることに拠っています。
 「15日巳の刻頃、朝霧の絶え間より、のぼりとおぼしき物が見えた旨を言ったので、各自が見たところ、思った通り、関東の大勢数万騎が見えた。この軍勢が次第に攻めて近付き、島津義弘の備より東方にある宇喜多秀家の備に(家康方の軍勢が)押しよせてきて(おそいかかってきて)合戦になり、宇喜多秀家の備は敗れた」などと。

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