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zoom RSS 大河ドラマ探訪435「真田丸」102 信繁と秀次の娘の子の「御田の方」2・「真田丸」では描かれず

<<   作成日時 : 2016/10/03 10:35   >>

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 真田信繁と秀次の娘(隆清院)の間に生まれた「直」(御田の方)ですが、佐々木裕三氏の「顕性院・御田の方」の「御田の方 年譜」の中で、慶長9年(1604)に生まれたと記されています。とすれば、当然、九度山に流された信繁に一緒に暮らしたことになります。昨夜放送された大河ドラマ「真田丸」第39回で、隆清院(「真田丸」では「たか」)が大坂の陣の直前の慶長19年にルソン島から戻ってきていましたが、そういう描き方では、「直」(御田の方)は無視された形です。前述したように、信繁と隆清院の間には、慶長20年には「直」の弟の佐次郎(幸信)が生まれていますが、このあたりは「真田丸」ではどう描かれるのでしょうか。
 大坂夏の陣の後、秀忠の大奥に出仕し、3年後に許された京都に戻った「直」が、佐竹宣家と出会うことなったいきさつについては、佐々木裕三氏の同書の中で、次のように記されています。
 「久保田藩(秋田藩)藩主であった佐竹義宣が、弟の佐竹宣家を伴い上洛した際に、『直』は大奥での経験を買われ、給仕女として身の回りの世話をした。
 義宣は『直』が武家の女性らしい礼儀作法・立ち居振る舞いを身につけていることに驚き、出自を尋ねるも『直』は『まちむすめ』としか答えなかった。また、朝早くから武芸のかけ声がすることに気づいた義宣が庭を見ると、『直』が甲冑をまとい他の給仕女に長刀の稽古をつけていた。 『直』はただの町娘ではなく武家の女性に違いないと義宣が懇々と身元をただした。遂に幸村の娘であることを知った義宣は、実弟の宣家の側室にしようと手を尽くし、翌年には正式に側室として迎えられることとなり、『直』を伴い秋田に向かった」と。
 これがどこまで事実かわかりませんが、ドラマになりそうな出会いです。京都に戻った「直」が、仕えたのは日野屋敷であると、上述の「御田の方 年譜」に記されています。
 岩城町妙慶寺史蹟奉讃会発行の「妙慶寺史蹟案内」にも、ほぼ同様のことが記されています。「直」はこの時、16歳だったことも述べられています。甲冑をまとい稽古をつけていたというのは、わざとらしい作り話のような゜気がしますが、「直」が16歳の時に身につけていた甲冑が、「妙慶寺の宝物殿の寺宝・御田の方ゆかりの品々」なる資料(これも佐藤誠氏からいただきました)に載っています。「六文銭のついた兜は全国で唯一残ると言われる」と説明されています。
 「妙慶寺史蹟案内」には、宣家及び、「御田の方」との関係について次のようなことが記されています。
 「宣家公は先に檜山多賀谷家へ養子せられ多賀谷家の家付の御夫人とは不和が生じ佐竹家へ戻り御夫人とは別居生活せられ心淋しき折とて顕性院殿を迎へられしに非常に満足を得られました。顕性院殿は又夫君宣家公に好く仕へ長男庄次郎(後岩城城主重隆又月峰様)外一男一女をもうけられました」と。
  

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