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zoom RSS 大河ドラマ探訪451 「真田丸」118 信繁が老いを嘆いた書状の原本発見・老いた姿・大坂五人衆

<<   作成日時 : 2016/10/30 11:09   >>

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 真田信繁が老いを嘆いたことを記している書状の原本が110年ぶりに発見されたという記事が25日付の新聞に出ました。原本が発見されたというのは画期的なことであり、わくわくした感動を覚えました。もっと早く見つかっておれば、「真田丸」展にも展示されていたかもしれません。
 朝日新聞によると、丸島和洋氏が「実見」し、「内容や花押(サイン)などから、関ヶ原合戦での敗北後、九度山(和歌山県)に幽閉されていた1614年ごろに記された自筆の書状と鑑定した」ということです。
 書状の内容については、「義兄にあたる小山田茂誠(しげまさ)にあてたもので、新年に2尺のサケを送ってもらったことに対する礼状」であり、「去年から急に老け込んで病気がちになり、歯も抜け、ひげも黒いところがあまりなくなってしまった」、「『もはやお目にかかることはないのでしょうね』とこぼす一方、『いま一度お目にかかりたく存じます』としめくくるなど、揺れ動く心のさまがうかがえる」と記されています。
 朝日新聞では、丸島氏はこの書状について、「病気がちだと書いているが、筆遣いからは弱っている人の字には見えない」と記されています。また丸島氏は「真田四代と信繁」(平凡社新書)の中で、この書状は「大坂入城後のものとされることが多いが、花押型および『久しくこのようなところに住んでおりますので、どこからも見舞いが来ることはありません』と述べていることから、九度山蟄居期のものである」と指摘されています。
 大河ドラマ「真田丸」では、信繁が白髪の、歯が抜けた老人に変装し、大坂城に入城する場面が描かれていましたが、この書状をヒントにして、そういう描き方にしたのではないかと思われます。大坂城にすでに入っていた牢人たちもその老いた姿に驚く姿も描かれていましたが、信繁が秀頼に対面する時には変装も取り、りりしい姿になっていました。
 「真田丸」では、秀頼が信繁(幸村)を総大将に任命しようとしたものの、諸将の反対にあい、信繁が総大将を辞退し、その代わりに五人の大将を選び、総大将には秀頼になってもらうことを提案し、それが諸将に了承されるという展開になっていました。ここまで信繁が主導権を発揮することができたかはわかりませんが、丸島氏の同書の中で、五人衆について次のように記されています。
 「後藤基次(又兵衛、黒田長政旧臣)の遺臣長沢九郎兵衛の回想録『長沢聞書』によると、大坂衆で騎馬100騎以上を与えられたのは、大野治長・大野治房・真田信繁・長宗我部盛親・明石全登(掃部、宇喜多秀家旧臣)・仙谷秀範・毛利勝永・木村重成・浅井周防守・後藤基次の10名であったという。この中でも信繁・長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登・後藤基次は五人衆と呼ばれ、別格の扱いを受けたといわれる。これは前三者が豊臣大名および大身の馬廻、残り二人も大名の家老出身という家格によるものと思われる」と。
  

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