関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1759 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」2 移動理由

<<   作成日時 : 2016/10/31 18:49   >>

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 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)では、島津家家臣史料の記載箇所が列挙され、その内容が検討されていますが、三成方が大垣から関ヶ原へ移動したルートについては、「某覚書」の記載が紹介されています。
 すなわち、「石田三成をはじめ島津義弘そのほか西国の軍勢が(14日の)夜中に大垣を立ち、南宮山下を通って、関ヶ原へ出ることになった」などと。
 こういうルートを通ったことについては、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記しました。
 大垣城を出た理由については、白峰氏の同書には、島津家家臣史料の記載から次のように指摘されています。
  「記載からすると、9月14日の家康の赤坂着陣の情報、及び、家康が大垣城を攻めずに上洛するという情報が大垣城に入ったため、急遽、大垣城から移動して翌日の関ヶ原での決戦が決まった、ということがわかる。このことからすると、家康の上洛を阻止して、家康の上洛前に関ヶ原で決戦を挑む、という意図が見えてくる。
 それ以外に、石田方の諸将が大垣城から出た副次的な要因として、大垣城での薪や兵粮の不足、赤坂あたりに家康方の軍勢の陣所が多くあったので、石田方の増援部隊が進行するのに支障があったという点も考えられる」と。
 家康が上洛するという情報が入ったということについては、家康がそういう噂を流し、三成方を関ヶ原におびき出したという従来からの見方がありますが、それは家康を神格化する徳川史観によるものではないでしょうか。移動したのは、あくまで三成方の事情であり、それは「薪や兵粮の不足」や「増援部隊が進行するのに支障があった」とする島津家家臣史料の記述もそれを物語っているように思えます。
 大垣から移動した理由については、動きの怪しい小早川秀秋が松尾山に勝手に陣取ったために、その動きを牽制するためだったとする中井俊一郎氏の見解があり、「三成伝説」でも取り上げています。
 家康の侍医が記した日記「板坂ト斎 慶長記」にも、三成たちが関ヶ原に移動したのは、秀秋が「むほん」したからだと記されています。「板坂ト斎 慶長記」は島津家家臣史料と同様、二次史料であり、後年になって記憶をたどって書かれたものですから、記憶違いや勘違いがあるかもしれませんが、一次史料に次ぐ価値があります。
 島津家家臣史料には、小早川秀秋が前もって 「むほん」したというような記述はありませんし、大谷吉継が秀秋の「むほん」を知っていたら、白峰氏の見解通り、関ヶ原エリアに出て、秀秋隊を後ろにしたまま、家康方軍勢と戦う危険を冒したのかという疑問が残り、このあたりどう考えたらよいか検討課題だと思われます。

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