関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 三成の実像1741大河ドラマ探訪439「真田丸」106 木土博成氏の講演3 折紙書状・首が落ちる地蔵

<<   作成日時 : 2016/10/07 10:58   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 大阪歴史博物館で2日に開かれた、木土博成氏の講演「真田丸」で、年不詳の7月28日付の西山左京宛の真田信之書状が取り上げられ、原文、釈文が史料に載っています。特に原文は用紙1枚に印刷され、上下2段に書かれた書状を真ん中で折って、さらにそれをいくつかに折って、宛名が上に来るようにして、当時の折紙書状がどういうものか、具体的に説明されていました。
 「真田丸」展の図録には、この書状について次のように解説されています。
 「花押より見て真田信之が松代藩主となってからの寛永年間の書状。宛名の西山左京とは、足利十三代将軍義輝の孫という人物で、熊本藩細川家の客分であったという。その西山に信之が、領国産の織物嶋(縞)三反を進呈する、などとしている」と。
 講演会では、この書状の宛先である西山左京と、信繁書状の宛先の左京とは別人だと指摘されていました。西山左京は「様」であり、信繁書状の左京は「殿」であること、信繁が足利将軍の孫に焼酎は所望しないことなどが根拠に挙げられていました。
 福井市郷土歴史博物館所蔵の石造地蔵菩薩についても講演会で紹介されていました。大坂夏の陣で、信繁を討ち取った越前藩の西尾宗次が信繁の供養のために建立したと伝わるもので、西尾は信繁の首を福井に持ち帰り、密かに埋葬しましたが、その場所は一子相伝であり、秘密であると述べられていました。
 この地蔵菩薩の首が江戸時代に落ち、そのたびに修復するものの、修復した者は、熱が出たといわれていることも紹介されていました。もっとも、なぜ修復した者に祟るのかわからないと指摘されていましたが、この手の話はそういう理屈では割り切れないところがあります。もっとも、どこまで事実かはわかりませんが。
 三成にもこの手の話は伝わっています。オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)には、嶋左近の屋敷があったとされる清凉寺に、佐和山落城にまつわる七不思議なるものがあることが取り上げられ、その一部が紹介されています。また関ヶ原の戦いに敗れた三成が捕縛されたとされる古橋に伝わる言い伝えも詳しく記されていますが、「三成の無念さ」や「三成を徳川方に差し出さねなければならなかった古橋村の民衆の無念の思いが込められている」と解説されています。
 信繁供養のために作られた地蔵菩薩の首の話にも、信繁の無念の思いがこもっているのでしょう。
 この地蔵菩薩もじっくり拝見しましたが、確かに首と胴体の接合部は違和感があって、取り付けられた印象を受けました。そういう話を聞いていたから、余計そう思えたのかもしれませんが。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
三成の実像1741大河ドラマ探訪439「真田丸」106 木土博成氏の講演3 折紙書状・首が落ちる地蔵 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる