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zoom RSS 石田三成の実像1742大河ドラマ探訪440「真田丸」107 「真田丸」展1 昌幸ら宛の三成書状

<<   作成日時 : 2016/10/08 10:46   >>

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 大阪歴史博物館で開かれている「真田丸」展で、三成関係のものが何点か展示されていました。関ヶ原関連のものが主であり、慶長5年8月5日付真田昌幸・信幸・信繁宛の三成書状、前田幹雄氏が描いた三成の肖像画、内府ちがいの条々(三成の名は記されていませんが、原案を作ったのは三成だと考えています)。
 この三成書状については、拙ブログ記事で何度も取り上げましたが、「真田丸」展の図録には次のように記されています。
 「石田三成が、真田昌幸(房州)や信幸(豆州)、信繁(左衛門介)に送った書状。本状の段階では、なおも昌幸親子の去就は曖昧だったため、宛先は 三者連名となっている。
 前半では、昌幸と昵懇である会津の上杉景勝に連絡を取り、関東へ出兵するよう促すことを要請する一方、昌幸に対して、小諸・深志(松本)・川中島・諏訪の宛行(あてがい)を約束している。後半では、家康の部将鳥居元忠が守る伏見城が四日前に陥落したことなど、上方や東海における戦況を伝えている」と。
 この時点では、信幸が徳川方についたことを三成が知らなかったことがよくうかがえますが、真田家で固く守られてきた信幸宛の三成書状十数通が示しているように、信幸と三成は交流を深めていました(大河ドラマ「真田丸」では二人の親交ぶりが全く描かれていず、失望しました)から、当然、信幸も自分たちの側についてくれるものと思っていたはずです。この後、信幸が敵に回ったと知って三成は衝撃を受けたはずですし、なにより三成は沼田を通じて景勝と連絡するということを考えていましたから、信幸が治める沼田のルートが連絡に使えないことも、大きな痛手であったはずです。
 これも前にも述べたように、三成はこの後、昌幸に信濃・甲斐の所領まで与えることを約束しますが、「真田丸」では昌幸が所領を増やすように書状で三成に要求する場面がありました。
 また天正14年(1586)9月25日付の上杉景勝宛の石田三成・増田長盛連署状が展示されていました。これは同日付の秀吉書状の添状であり、その秀吉書状も展示されていました。その添状について、図録には次のように解説されています。
 「天正13年(1585)7月に関白となった秀吉は、上杉景勝に再三上洛をうながした。これに対し景勝は翌14年6月に上洛し、秀吉に臣従する。秀吉は家康の上洛を実現するため8月に真田を討ち果たすこを認め、景勝に真田支援を禁じた。秀吉は、真田を『表裏者』とし、自ら征伐に向かうと表明していた。しかし、家康の上洛に見通しが立つと、書状にあるとおり真田征伐をとりやめにした。
 10月に家康が上洛して臣下の礼をとると、11月4日、秀吉は景勝の意向を尊重し、真田を赦免し、知行を安堵することを景勝に報じた。これにより、北信四郡は上杉領、残りは徳川領と定まった。真田家の取次役は石田三成と決まり、後の関ヶ原合戦の展開を考える上でも重要な決定であった。上杉家文書」と。
 このあたりの経緯は、以前にも拙ブログ記事で取り上げましたが、秀吉が昌幸を「表裏者」と言ったと記しているは、三成書状であり、このことから見ても昌幸と三成が相婿だったとする可能性は薄いのではないかという見解を述べました。「表裏者」は秀吉が上杉にそう言っているだけで、本当にそうは思っていたということも考えられられますが、秀吉が三成と昌幸が姻戚関係にあるということをその時点で知っていたとするなら、三成にそのようなことを書かせることは考えにくいのではないでしょうか。
 

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