関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1743 大河ドラマ探訪441「真田丸」108 信幸が改名したのは家康の命令?

<<   作成日時 : 2016/10/09 11:43   >>

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 大河ドラマ「真田丸」では、真田信幸が、関ヶ原の戦いの後、家康に昌幸の「幸」の字を捨てるように言われ、「信之」に名前を改めるという描き方がされていました。
 この点について、丸島和洋氏の「真田四代と信繁」(平凡社新書)には、「慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いまで実名を『信幸』と称し、翌6年以降に『信之』と改名する」と記されています。
信之と名乗った最初の文書について、笹本正治氏の「真田氏三代」(ミネルヴァ書房)には、次のように記されています。
 慶長6年「8月5日の判物において『信之』と記されているが、それ以前については印判状などを用いているため、正式にいつから『幸』の字を『之』にしたのか判然としないけれども、文書的にはこの時からとなる」と。
 上田市立博物館発行の「真田氏史料集」に、慶長5年7月24日付の信之宛(この史料集では、この時点で信之という表記になっていますが、原文では真田伊豆守宛です)徳川家康書状が掲載されています。その解説文には次のように記されています。
 「昌幸・幸村父子は、大坂方に味方すべく、上田へ向けて帰ったが、信之は父弟とたもとを分かち、そのまま徳川方に留まった。そこで家康が、信之の忠節を賞して、与えたものである」と
 さらに同「史料集」には、7月27日付の信幸宛(これも真田伊豆守宛)の家康安堵状も掲載されていますが、その解説文は次のようになっています。
 「家康は信之の忠信が、よほど嬉しかったものか、7月24日付けの書状に続いて27日には、小県郡は親の領地であるから、それを没収のうえは、違儀なく信之に与える、その上、今後どのようにも取り立てる、という旨を訳している。
 真田家では、最重要文書として、保管してきた書状である」と。
 こういう書状から、家康は信幸が味方してくれたのを相当感謝していることがうかがえます。「真田丸」では、家康が信幸のことを疑い、脅していましたが、それはドラマ的なフィクションの可能性が高いように思われます。信之と改名したのも、徳川家をはばかって自発的にしたのではないでしょうか。
 結局、「真田丸」では、三成が最初の出会いから信幸を無視するなどして、三成と信幸は疎遠のような関係に描かれていましたが、実際は、信幸宛の書状が十数通残っており、しかもその書状を信幸をはじめ代々の真田家の藩主は守ってきました。三成と信幸の親しさが全く描かれなかったことに失望したということは、昨日の拙ブログ記事でも記しました。
 

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