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zoom RSS 石田三成の実像1768 水野伍貴氏の講演「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」3 三つの勢力

<<   作成日時 : 2016/11/10 10:51   >>

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石田会館で行われた水野伍貴氏の講演会「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、秀吉死後の勢力関係について、三つの勢力に分けて説明されていました。
 まず、一つ目の勢力として、石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の四奉行と毛利輝元の勢力、彼らは秀吉死後10日後の8月28日に盟約を結びました。
 二つ目の勢力は徳川家康であり、細川忠興、長宗我部元親、島津龍伯(義久)など諸大名との結びつきを図り、伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政、加藤清正、黒田長政ら諸大名と婚姻関係を結びました。
 三つ目の勢力は前田利家であり、宇喜多秀家、細川忠興、浅野長政・行長、加藤清正らと縁戚・友好関係で結ばれていました。
 この水野氏の見解は、中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)で取り上げられ、次のように記されています。
 「最近の研究では秀吉死後の政局に関して、三成と家康の対立という二極化した見方ではなく、徳川派・前田派・毛利および三成ら奉行派と三極でみるべきという見解が水野伍貴氏らによって提唱されている。徳川vs反徳川=三成という捉え方ではなく、徳川派vs三成・毛利派vs前田派という三派が各々の思惑で動いていたという考えである。この見方は当時の情勢を理解する上で非常に重要と思われる」と。
 秀吉が亡くなった翌年の慶長4年(1599)正月に、家康の六男の松平忠輝と伊達松宗の娘の五六八姫の政略結婚が問題化した時の対立構造は、「毛利・四奉行連合+前田系の勢力+上杉景勝」対「徳川家康+諸大名(池田・福島・黒田・藤堂・森など)」だったと説明されていました。
 この対立は、2月5日に家康と四大老五奉行の間で誓紙が交換され、2月29日に前田利家が伏見の徳川邸を訪問し、3月8日に宇喜多秀家が家康に誓紙を出すことによって解消されました。
 大河ドラマ「真田丸」では、1月21日に三成が家康を襲撃しようという動きに出たというふうに描かれていましたが、拙ブログで以前触れたように、実際にはありえないと考えています。この記述は「当代記」にしかありませんし、家康襲撃計画は前田派の賛成を得られるはずがありません(「真田丸」でも利家たちは反対していました)し、何より三成自ら「惣無事」に反するようなことをするとは思えないからです。「真田丸」では、三成がこの罪を問われて謹慎していましたが、その形跡はありません。しかし、「真田丸」では、この後、利家の死後、武断派七将が三成を襲撃する理由の一つとして、三成が家康を襲おうとしたことも罪に挙げられていましたが、三成はあらぬ罪を着せられたという気がします。

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