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zoom RSS 石田三成の実像1769 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」4 三成襲撃事件

<<   作成日時 : 2016/11/11 11:30   >>

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 石田会館で行われた水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、七将による石田三成襲撃事件についても言及されていました。七将は、「細川忠興、蜂須賀家政、福島正則、藤堂高虎、黒田長政、加藤清正、浅野幸長」であり、彼らは慶長の役の際に秀吉に処分を受けたことに対して三成に恨みを持った者だけでなく、そうでない者も含まれているので、この事件は恨みだけでなく権力闘争の様相を呈していると説明されていました。
 まず、処分を受けた者ですが、蔚山城籠城戦の際、敵を追撃しなかったことで、蜂須賀、黒田、藤堂、加藤らが譴責処分を受けます。このことが、三成襲撃事件の直接的な起因になったということは、笠谷和比古氏が指摘されています(「秀吉の野望と誤算」【文英堂】)。武将らのことを報告したのは、奉行として派遣された福原長嵩らでしたが、福原らが三成派だったため、その矛先は三成に向かいました。三成はとばっちりを受けた形であり、朝鮮と和平を整えることを目指し、出兵には反対の姿勢をとっていた三成にとって、心情的には追撃しなかった武将たちのこともよくわかっていたに違いありません。しかし、福原ら奉行たちの報告を無視することは、立場上できず、そこに三成の苦悩があったはずです。
 細川、福島、浅野はこの処分とは関係がありませんが、いずれも前田派であり、石田三成襲撃事件は権力闘争の面があったのも確かです。中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、この点について、「前田派と三成・毛利派の争い」だと記されています。
 事件の経緯について、水野氏の講演では、「慶長4年(1599)閏3月3日、前田利家歿」「閏3月4日、石田三成、伏見城内の自分の屋敷に逃げ込む」「閏3月10日、石田三成、近江佐和山に蟄居する」との経緯が説明され、三成が家康の屋敷ではなく城内の自分の屋敷(治部少輔丸)に逃げ込んだという笠谷和比古氏の見解が紹介されていました。
 襲撃事件の前、大坂にいたのは、前田利家、宇喜多秀家、浅野長政、そして三成でしたが、三成以外は前田派でした。それに対して、伏見には、徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、増田長盛、長束正家がおり、家康以外は三成寄りの者たちであり、三成が大坂から伏見に移ったのは当然だったと解説されていました。
 伏見城に立て籠もった三成が毛利と結んで巻き返しを図ったということは説明されていませんでしたが、毛利厚狭文書にそういう記載があることが、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHK出版)で指摘されています。
 大坂城が徳川方に掌握されてしまったために、毛利・四奉行連合は瓦解し、三成は奉行職を解かれたと講演会で述べられていましたが、その状況説明に、「1599年日本年報」や毛利元康宛の毛利輝元書状の記載が取り上げられていました。

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