関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1770 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」5 三成襲撃事件2

<<   作成日時 : 2016/11/12 11:10   >>

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 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件に関して、「三河物語」には、「最後には石田治部少輔(三成)一人に責任をかけて、寄り合って治部(三成)に腹を切らせようとした」という記述があることが取り上げられていました。
 これと同様の記述が、「1599年度日本年報」にもあることも示されていました。
 「時が経つにつれて、治部少輔(三成)のもとを離れた軍勢や武将たちの数の増大によって家康は強大になり、勝者のように、こう言うようになった。治部少輔(三成)が故国の礼儀に従って切腹をしない限り、その他の方法によって日本国が平穏になることはできぬ。と」
 三成は切腹こそさせられなかったものの、騒動の責任を一人で背負わされ、奉行職を解かれました。これらの記述は、書いてあることがすべて真実ではないものの、そういう事実の一端を語っているわけです。
 三成襲撃事件に関して、「1599年度日本年報」の次のような記述も取り上げられていました。
 「ついに家康は、太閤様(豊臣秀吉)の息子である主君(豊臣秀頼)が住んでいた大坂城を占拠した。しかも彼は、このことを心中の意図によって非常に狡猾にやってしまい、そのため奇襲攻撃を受けた(敵方および)援軍に来ていた敵方には防衛の余裕を与えなかった。(大坂)城から遠くない邸にいて、六千の武装した軍勢に護られながら夜を過ごしていた治部少輔(石田三成)は、この思いもかけぬ不幸を阻止することができなかった。治部少輔(三成)はこの窮地に追い込まれると、同僚の統治者たちの権力下にあった伏見の城へ赴いた」と。
 この記述のうち、三成襲撃事件の時に家康は大坂城にいなかったということは講演で指摘されていましたが、実際、家康が大坂城に居座るのは、三成が隠居した後の9月のことです。実際は、大坂は前田派で占められており、三成を襲おうとしていた七将の多くは前田派でしたから、三成は「窮地に追い込まれ」て伏見に移ったわけです。
 三成は伏見に立て籠もり、毛利輝元と結んで大坂城を奪って秀頼を奉じる計画でしたが、大坂城を家康方に奪われてしまったために、実現しませんでした。
 そのことを示す毛利元康宛毛利輝元書状の記述が取り上げられていました。
 すなわち、「大坂城は、徳川方が掌握したと聞いている。こちら方は一切(大坂城に)出入できないようだ」「大坂城に在番している小出秀政・片桐且元は徳川方である」と。
 片桐且元については、大河ドラマ「真田丸」では豊臣方として捉えられていたものの、実際は家康方だということが、講演会で触れられていました。且元が家康方だったことは、その後もずっとそうであり(一方で秀頼の家老でもありましたが)、大坂の陣開戦の家康方の口実になった(方広寺鐘銘事件があったとはいえ)のは、豊臣方が且元を殺害しようとして城から追い出したからでした(本多隆成氏「定本 徳川家康」【吉川弘文館】)。
 

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