関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1771 水野伍貴氏の講演「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」6 個別撃破が家康の策

<<   作成日時 : 2016/11/13 11:32   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、慶長5年の家康の上杉攻めは、三成を誘うためだったという従来の説が否定されていました。その説とは、家康が上方を留守にすれば、三成が挙兵するから、この際、敵対勢力をまとめて掃討するというもので、司馬遼太郎氏の小説「関ヶ原」(新潮文庫)などでもそのような描き方がされています。
 しかし、三成が家康の留守を衝いて挙兵に及ぶと当時の人々が考えていた一次史料は存在しないと、講演で指摘されていました。
 三成が挙兵を周囲の者に明かしていなかったことを示すものとして、三成が挙兵した後の7月晦日付の真田昌幸宛の書状で、決起を事前に知らせなかったことを詫びていることが挙げられていました。
 逆に、当時、日本で捕らえられていた朝鮮のカンハンの「看羊録」には、加藤清正が上方で挙兵する反乱分子と目していたと記されていると触れられていました。この「看羊録」は当時のことを知る上での重要な史料であり、拙ブログでも、三成に関する記述を中心に取り上げました。書かれていることは噂のたぐいも混じっており、それが事実であるかは日本側の史料と照らし合わせて検討する必要がありますが、無視できない史料の一つです。
 「看羊録」のこういう記述から、「上方で反乱が起こることは危惧されていたが、その警戒が三成へ集中的に向けられていたわけではない」と指摘されていました。
 また家康の意図として、各大名を個別に撃破してゆく手段を取っていたと述べられ、実際、家康は奉行の三成を引退させ、この後大老の前田利長を屈服させて、次にやはり大老の上杉景勝を攻めてゆくわけです。家康が個別撃破しようとしていたという見解は、中井俊一郎氏によって、「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)にも示されています。天下を二分するような戦いを起こすことはリスクが高すぎ、家康はそれより確実な個別に大名を屈服させ自分の側に取り込んでゆくという方法をとったと。
 慶長4年9月に起こった家康暗殺計画事件についても、講演会で取り上げられていました。その経緯について、次のように説明されていました。
 「慶長4年(1599)9月7日、家康が重陽の節句に豊臣秀頼へ祝詞を述べるために伏見から大坂の石田三成邸に入ったところ、同日夜、増田長盛が『家康暗殺計画』について密告。その内容は、前田利長が首謀者で、大野治長、土方雄久が登城する家康を討ち取るというもの」
 「看羊録」には、「三成は家康に媚びようという心積もりもあって、暗殺計画を書状で家康に報じた」などと記載されていることも触れられていました。日本側の史料からは、三成が知らせたということは確認できませんが、家康が三成邸に泊まったということから、そういう噂が出たのかもしれません。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1771 水野伍貴氏の講演「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」6 個別撃破が家康の策 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる