関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1772 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」7 家康暗殺計画事件

<<   作成日時 : 2016/11/14 10:28   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 3 / トラックバック 0 / コメント 0

 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、家康暗殺計画事件の処分について、述べられていました。すなわち、前田利長は牽制軍を派遣され、征討軍を組織され、結局母の芳春院(まつ)を人質に出したこと。浅野長政は武蔵に蟄居し、三男の長重を人質を出したこと。大野治長は下総に蟄居、土方雄久は常陸に蟄居、細川忠興は三男の忠利を人質に出したこと。加藤清正も牽制軍を派遣されたこと。
 しかし、前田家と縁戚関係にある宇喜多秀家に対しては干渉していませんし、利長と上杉景勝が盟約を結んでいるという噂が流れたが、上杉景勝に対しても干渉していないことから、家康は五大老メンバーを二人以上相手にする事態を避けていたと指摘されていました。
 この時は家康は前田派にターゲットをしぼっていたわけで、個別撃破しようとしていた見解を裏付けています。前田家を屈服させた後、次に家康は上杉にターゲットを向けるわけです。
 牽制軍の派遣については、慶長4年(1599)9月21日付の島津忠恒宛の島津義弘書状の記述が取り上げられていました。
 「利長の軍が上洛するのを防ぐため、大谷吉治(吉継の子)と三成の内衆一千余が越前に配置された」「清正の軍も上洛も防ぐようにと、菅達長と有馬則頼が淡路に配置された」と。
 三成が牽制軍を出したということについては、カンハンの「看羊録」にも、次のように記されていると述べられていました。
「家康は、遂に関東の諸将に令して、肥前が倭京に上ってくる路を塞ぎ、また、石田治部少輔に介して、近江州の要害を防備させた」と。
 三成が家康の要請を受けて出兵したということについては、島津家の史料だけではなく、前田家、細川家の史料にも同様の記述があることを故市野澤永氏から教えてもらいましたし、拙ブログ記事でも取り上げました。市野澤氏の追悼文でもそのことを述べ、改めて感謝の意を記しました。
 この時点で、三成は家康寄りだったことを、講演会では、石田一族が家康に屋敷を提供していたこと(9月7日から大坂城外の三成の屋敷に泊まり、その後、城内の兄の正澄の屋敷に泊まりました)、三成が佐和山に蟄居した後、その代わりに長男の重家の出仕が家康に認められ、重家は大坂城の秀頼に奉公し、石田家の存続が認められたこと(それを示すものとして、毛利元康宛毛利輝元書状、「北野社家日記」の慶長4年閏3月10日条の記述が挙げられていました)をもとにして指摘されていました。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 3
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1772 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」7 家康暗殺計画事件 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる