関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1773 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」8 反徳川闘争

<<   作成日時 : 2016/11/15 10:50   >>

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 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、関ヶ原の戦いに向けての動きについて、慶長5年6月16日、家康が上杉征討軍を率い、大坂を出発した後、三成が挙兵に向けて動き出し、大谷吉継、真田昌幸、上杉景勝は挙兵計画が出来上がってから連携をとり始めたと説明されていました。
 三成と上杉景勝との間にかねてより密約があったかどうかについては、見解が分かれていますが、水野氏は三成が挙兵してから上杉と連絡を取ったという見解を取っており、確かにそれまで密約があったとする史料は見つかっていません。もっとも、密約があったのではないかという点に関しては、白川亨氏の「石田三成の生涯」(新人物往来社)で、三成の次女が上杉家臣の岡半兵衛に輿入れしていることを論拠に挙げられています。私も三成と兼続の間になんらかの連携があったと考えており、そうでなければ、直江状という挑発的な書状を家康に送るはずはないと思っているからです。本気で上杉が単独で全国の大名を相手に戦おうとは思っておらず、三成などの助けがあると考えていたのではないでしょうか。
 水野氏の講演会では、毛利輝元と宇喜多秀家の二大老が、反徳川闘争には積極的だったと説明されていました。 毛利輝元が積極的だったとするのは、光成準治氏の見解に基づいていることが明らかにされていました。7月12日付の三奉行による上坂要請状が輝元に届いてすぐの15日に安芸を出発しており、輝元はあらかじめ準備を整えていたことがわかると。
 講演では、宇喜多秀家も積極的だった根拠として、「7月5日に豊国社で『神馬立』を行い武運を祈る(「舜旧記)」「7月7日には秀家の女房衆が『湯立』を行い、北政所の名代として東殿局も参詣している」ことが挙げられていました、
 この時点で、宇喜多秀家が反家康の決起を表明していたという見解は、白川氏によって示されていますし、水野氏の講演のレジュメの参考文献には、その見解が掲載されている白川氏の「石田三成その一族」(新人物往来社)が挙げられています。しかし、この見解については、拙ブログで今までたびたび取り上げているように、大西泰正氏によって否定的な見解が述べられています。すなわち、大西氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)で、この時の宇喜多秀家の豊国社参詣は、会津攻めの戦勝祈願のためであり、秀家が三成方に就くのを決めたのは、7月12日以降、15日の間と指摘されています。
 大西氏の同書では、布谷陽子氏、三成準治氏も「舜旧記」の記述から7月5日の時点で秀家は家康を討伐することを表明したという見解を示していることが記されています。また白峰旬氏も彼らと同様の見解を示されていますが、秀家の豊国社参拝をどう見るかは、今後の検討課題だと思われます。

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