関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1774 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」9 挙兵した三成の目的

<<   作成日時 : 2016/11/16 21:05   >>

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 宇喜多秀家が7月5日に豊国社に参詣することで反家康の決起表明をしたかどうかについてですが、7月12日付の永井長勝宛の増田長盛書状が本物であるかという問題にも関わっています。大西泰正氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)にその書状が引用されており、その書状について次のように記されています。
 「『慶長年中卜斎記』が録するところの、7月12日付で増田長盛が上方の情勢を家康に報じるべく、その側近(永井直勝)に宛てた文書である。大谷吉継が美濃国樽井に病のため留まっていることと、石田三成が挙兵するであろうとの『雑説』とを伝えたものだが、秀家がかれらと企図を同じくし、豊国社において決意表明なるものを行っていたとすれば、これを増田が家康に報じていないのはきわめて不自然である」と。
 この書状については、拙ブログ記事で記したように、白峰旬氏によって、偽文書だという見解が出されています。この文書の真偽については、よく検討する必要があると感じました。
 もっとも、大西氏の同書では、「この時点での増田ら三奉行は、むしろ三成・大谷吉継の不穏の動向に動揺し、その鎮定を、家康・毛利輝元ら諸大名に依頼していた」と指摘され、その註に、7月27日付秋田実季宛榊原康政書状、7月12日付毛利輝元宛前田玄以他二名連署状写が挙げられています。
 7月12日付毛利輝元宛前田玄以他二名連署状写については、拙ブログ記事で取り上げたように、輝元がこの書状を受け取ってすぐに上坂したことから、あらかじめ三成ら反家康勢力と連携を取っていたことを示すものだということが、水野氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」で指摘されていました。
 このあたり、前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行それぞれが反家康闘争にどれだけ積極的であったかどうかについても、細かく見ていく必要性を感じます。
 水野氏の講演会の中で、7月17日付の「内府ちかひの条々」からみる挙兵の意図について、「1条目から3条目にかけて、家康が五大老・五奉行の構成員を排斥したことに非を鳴らす」ということが指摘されていました。三成は挙兵から1ヶ月後には奉行衆として連署に加わっており、「三成の目的は政権の中枢への復帰」だったと指摘されていましたが、それだけではなく、三成らの目的は「家康の施策を否定・白紙化し、秀吉が意図していた従来の政治体制(五大老・五奉行制)に戻す」ことも述べられていました。
 毛利輝元と宇喜多秀家が、家康による大老・奉行衆の排斥に危機感を持っていたことを示すものとして、7月17日付の前田利長宛の毛利輝元・宇喜多秀家連署状の「大老・奉行が一人ずつやられていっては、秀頼様を盛り立てることが出来なくなる」という記述が挙げられていました。
 

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