関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1775 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」10 三成の人望

<<   作成日時 : 2016/11/17 12:09   >>

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大河ドラマ「真田丸」では、秀吉の死後、関ヶ原の戦いに至るまで、三成対家康という構図でした。三成を嫌う人々が家康につくという展開でしたから、「人望がない」三成に従う武将が少ないという描き方であり、そういう点に不満を覚えました。むろん、吉継は三成に協力していましたが、味方が少ない三成を助けるという形でした。
 水野伍貴氏の講演会「関ヶ原合戦に至る石田三成の動向」では、おわりに三成の「人望」という点について述べられていました。
 江戸時代に記された「常山紀談」の「世の人石田殿をば無礼なりとて、末々に至てもこころよからずいいあえり」などという記述が取り上げられ(家康はその反対に「礼法あつく仁愛深し」などと賞賛されています)、そういう「人望のない」三成像が現在まで引き継がれていると指摘されていました。
 しかし、実際には、三成は大名たちに人望があったということを、いろいろな大名たちとの関係を通じて明らかにされていました。
 真田昌幸は三成を交渉窓口にして西軍に加担することを表明しており、婿の吉継を通じてではなかったという点が挙げられていました。また島津惟新(義弘)は西軍の中核を担った一人であるという見方が示されており、うなずけます。島津が三成に遺恨を持ち、関ヶ原の戦いで動かなかったという従来の説については、桐野作人氏によって否定的な見解が示されています。佐竹義宣は上杉氏と連携し、前年の石田三成襲撃事件では三成を大坂から伏見まで護衛したことが挙げられていました。織田秀信は三成と積極的に作戦を協議し、また個人的にも親しく、草津の湯治の世話を三成に頼んでいることが述べられていました。
 このように三成が「取次」を担当し、もしくは交流を持った諸大名の多くが西軍に味方したと説明されていました。それに対して、同じく「取次」を担当した浅野長政の場合は、伊達政宗に絶交されたり、宇都宮氏を改易したりしていると述べられていました。
 さらに津軽為信は、戦後、三成の次男の重成を領内に匿い、その子孫は津軽藩の家老を務めたことも取り上げました。講演では触れられていませんでしたが、三成の三女の辰姫は、為信の子の信枚に嫁ぎ、世継ぎを生んでいます。これも津軽家が存続するに当たって、三成の尽力があったからで、津軽家はそのことを恩義に感じたからでした。
 また真田信幸は、三成の書状を廃棄することなく保管し、それが現在も残っていることにも触れられていました。
 武断派との対立があったことは事実です(三成が彼らに多分に誤解された面があると思いますが)が、そのことをもって三成に人望がなかったというのは誤った見方です。

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