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zoom RSS 大河ドラマ探訪453 「真田丸」120 「ブラタモリ」・太田浩司氏の講座第3回1 「幸村」に改名は嘘

<<   作成日時 : 2016/11/18 11:19   >>

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 大河ドラマ「真田丸」第45回「完封」は、真田丸攻防戦が描かれ、初めて信繁(幸村)が主役らしい、戦いでの活躍を見せていました。
 「真田丸」では、真田丸の絵図について、従来通りの半円形のものが使われていました。しかし、千田嘉博氏などの研究によって、真田丸は半円形ではなく方形だということが確かめられ、昨年11年に、真田丸の中心地と推定される大阪明星学園で行なわれた「真田丸プレミアムトーク」でそのことが強調されていましたが、残念ながら「真田丸」ではその新しい研究成果は取り入れられていませんでした。
 もっとも、その前日に放送された「ブラタモリ 大阪城・真田丸SP」では、タモリさんらが今年松江で新たに発見された絵図を頼りに、真田丸跡地をめぐっていました。その絵図は元禄時代に描かれた今までの絵図の中で最古のものですが、千田氏の見解の根拠とされた浅野家に伝わる絵図とあまり変わりないものです。北側に半円形の出丸、東西と北に崖、南に堀が描かれており、タモリさんらはその出丸があったあたりや、真田丸の中にあった道(現在の心眼時坂 西には明星、東には心眼寺があります)、東の崖の痕跡(旧陸軍墓地の西の端)を回っていました。旧陸軍墓地は幸村の銅像や真田の抜穴がある三光神社の西側にありますから、三光神社や旧陸軍墓地のあたりは真田丸の外側であり、徳川方が陣を置いていた場所であることがわかります。
 「ブラタモリ」では、南側の堀の跡はすっかり埋められたとしてその痕跡は確認されていませんでしたが、千田氏や坂井尚登氏によって、堀があったあたりは推定されています。タモリさんらは明星学園の屋上に登って、上から真田丸の全景を確かめていました。
 拙ブログで取り上げたように、「真田丸」において信繁は大坂に入城する前に幸村という名前に変えていたものの、生前に信繁が幸村と名乗った事実はないということを記しましたが、5日に長浜で行われた太田浩司氏による「『真田丸』を3倍楽しむ講座」の中で、信繁が幸村と名乗ったという描き方になっていたことに不満が述べられていました。このことによって、世間の人々は信繁が生前、幸村と名乗ったということが本当だというふうに受け取るってしまうのではないかと危惧の念が示されていました。「真田丸」が信繁という名前で始まった時には、英断だとほめておられた太田氏でしたが、こういう描き方になったことに対して大河ドラマの罪は大きいという言い方をされ、失望の念を覚えておられることがひしひしと感じられました。
 幸村と名乗っていない根拠として、大坂冬の陣と夏の陣の間の、慶長20年3月19日付の書状に信繁と署名していることが挙げられ、「真田信繁発給文書一覧」(平山優氏『真田信繁』【角川選書】所載)の中に、幸村署名の書状が2通あるものの、いずれも偽文書であり、後で時代をさかのぼって作った書状だと指摘されていました。
 
 

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