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zoom RSS 石田三成の実像1776 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」2 宇喜多秀家参拝の目的

<<   作成日時 : 2016/11/19 10:24   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)では、布谷陽子氏は「『西軍』としての二大老・四奉行体制というとらえ方をしているが」、白峰氏は「政権(豊臣公儀)の枠組みというとらえ方をしており、この中で主導的役割を果たしたのは、二大老の中では毛利輝元であり、四奉行の中では石田三成であることは明らかであるので」「当該機の政権の枠組みについて石田・毛利連合政権というとらえ方をして」います。
 白峰氏は、大老や奉行の発給文書から、7月12日の時点で、「石田・毛利連合政権の核になる部分が結成されたと考えてよかろう」と指摘されています、その根拠として、「(慶長5年)7月12日付毛利輝元宛前田玄以・増田長盛・長束正家連署状」が挙げられ、「この連署状の内容から、三奉行が毛利輝元の上坂を要請し、豊臣秀頼の『御意』を得て、三奉行と毛利輝元で『大坂御仕置之儀』を遂行する、という図式(構図)は、石田・毛利連合政権のコア(核)になる部分を如実に物語っている、という点で重要である」と指摘されています。
 その前の7月5日の宇喜多秀家の豊国社参詣について、「『前代未聞の物々しい出陣式を執り行う』ととらえる見解があり、そのように考えると、7月5日の時点で宇喜多秀家は反家康の武力闘争を決断していたことになる」と白峰氏の同書では記されています。この見解は白川亨氏のものであることが註で示されています。
 この白川氏の見解については、大西泰正氏によって否定的な見解が示されています。拙ブログでも取り上げたことですが、大西氏の「豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家」(岩田書院)には次のように指摘されています。
 「『神馬立』神事を『前代未聞の物々しい儀式』、湯立神楽を『必勝祈願』と断定することなど、いずれも根拠に乏しい。また、白川氏の議論は、『三成の要請』『北政所の要請』などと、秀家による主体的行動の可能性をはじめから排除した立論であって、およそ従うことはできない。常識的見地からすると、同社への秀家社参は、公戦たる会津遠征への出陣に際しての、儀礼的・形式的必要によって秀家一己の意思に基づいてなされたものといえる」と。
 宇喜多秀家の豊国社参拝をどう見るかは、今後の検討課題だと思われます。
 白峰氏は、増田長盛が家康に内通していたことを示す7月12日付永井長勝宛増田長盛書状(写)について、「偽文書の可能性も視野に入れて検討すべきである」と指摘されています。その根拠として、「@原文書がなく写の文書しか伝存しない、A内容的に文章が短すぎる、B反家康として活発に動いていた安国寺恵瓊の動きについて全く触れられていない」ことなどが挙げられています。これも大きな問題なので、「偽文書」かどうかは今後の検討課題です。
 
 
 

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