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zoom RSS 石田三成の実像1777 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」3 反家康勢力の結成

<<   作成日時 : 2016/11/20 11:25   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)では、毛利輝元が国元を出発する7月15日より前に「輝元が反家康の中核になることを決断した」と指摘されています。
 その根拠として、7月15日付上杉景勝宛島津義弘書状が取り上げられ、「毛利輝元、宇喜多秀家、三奉行、小西行長、大谷吉継、石田三成が相談して『秀頼様御為』であるので上杉景勝に味方している」という内容であり、「それに島津義弘も加わるということなので、7月15日の時点で、二大老・三奉行+小西行長・大谷吉継・石田三成・島津義弘というメンバーが反家康で結成していたこと」、「反家康の軍事闘争は、当初から上方の二大老・三奉行などと東国の上杉景勝との連携が根底にあったこと」がわかると記されています。
 さらに同書状には「文末で『詳しくは石田三成より述べる予定である』と記されているので(この上杉景勝宛の石田三成書状は伝存していない)、7月15日の時点では、石田三成は失脚中の状態から脱して公然と反家康の動きをしていることになり、実質的にはこの時点で奉行に復帰していたと見なしてもよい」と指摘されています。
 三成が大谷吉継の賛同を得て挙兵したのは7月11日と云われ、その翌日に毛利家の外交僧の安国寺恵瓊を交えて密談したと伝えられており、毛利家と三成との交渉は水面下で進められていたものと思われます。
 この点について、光成準治氏の「関ヶ原前夜」(NHKブックス)の中で、毛利輝元は「決起に備えあらかじめて準備していた蓋然性が高い」と指摘され、この7月15日付書状も取り上げられています。
 すなわち、「書状の『両三人』からの『書状』とは12日の書状を指し、輝元はこの書状が大老の留守中公儀を差配する三奉行からの公儀の命令であるとして、自らは同日(7月15日)広島を発つことを知らせるとともに、清正にも同心を要求している」、「12日に発せられた三奉行の上坂要請の書状は15日に到着した可能性が高い。つまり、輝元は上坂を即断しているのである。さらに、上坂を即断した輝元はその日のうちに広島を舟で出発している。(中略)その日のうちに上坂に用いる舟や供奉する家臣及びそれに付随する武具・兵粮の手配などの準備を整えることは不可能であろう」と。
 この三奉行書状は白峰氏の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」にも掲載されており、その内容として「『大坂御仕置之儀』について(豊臣秀頼の)『御意』を得るため、早々に上坂するように伝える」と記されています。その注には、「三奉行が毛利輝元に上坂を要請し、豊臣秀頼の『御意』を得て、三奉行と毛利輝元で『大坂仕置之儀』を遂行する、という図式(構図)は、石田・毛利連合政権コア(核)になる部分を如実に物語っている、という点で重要である」と書かれています。
 三成の挙兵によって、吉継、三奉行、輝元、秀家、行長、島津らが反家康闘争に加わったわけですが、その行動を最初に示しているのが、この7月12日付の三奉行連署状であり、さらに7月15日付の上杉景勝宛島津義弘書状など(同日付の加藤清正宛や島津忠恒宛と思われる輝元書状も含めて)だと云えます。

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