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zoom RSS 石田三成の実像1778 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」4 二大老・四奉行発給書状

<<   作成日時 : 2016/11/21 12:15   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)では、慶長5年7月の三成挙兵後、毛利輝元と宇喜多秀家の二大老と長束正家・増田長盛・前田玄以・石田三成の四奉行が発給した連署状は、8月1日付の木下利房宛のもの、同日付の蒔田広定宛のもの、8月2日付の真田昌幸宛のものの3通しかないこと、二大老が発給した連署状は、7月17日付の前田利長宛のもの、8月1日付の島津忠恒宛のもの、8月4日付の松井康之宛のもの、8月5日付の鍋島勝茂・毛利勝永宛のものの4通しかないこと、四奉行が発給した連署状は、8月4日付の松井康之宛のものしかないことが指摘されています。
 この理由について布谷陽子氏の見解が紹介され、白峰氏によって、日にちの訂正はされながらも、その見解は肯定されています。
 すなわち、8月5日以降、「西軍の東進部署が決定し、各々その場に陣している武将が対応する形式へ変更されたためである」ということや、「8月中旬以降、分散行軍が展開した段階になってこの体制に乱れが生じ、二大老・四奉行の書状は発布されなくな」ったことがあるからだと。
 三成が8月5日以降に単独に発給された書状として、「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」には、5日付の真田昌幸・信幸・信繁宛のもの、6日付の真田昌幸宛のもの、7日付の佐竹義宣宛のもの、同日付の宛名不明のもの、10日付の佐竹義宣宛のもの、同日付の真田昌幸・信繁宛のもの、13日付の尾州飛保曼陀羅寺宛のものが掲載されています。
 真田家宛の三成書状の内容については、拙ブログでたびたび取り上げてきたので、それについては今回は省略します。7日付の佐竹義宣宛のもの、同日付の宛名不明のもの、10日付の佐竹義宣宛のものについては、その内容(摘要)について、次のように記されています。
 「去月(7月)23日に『其地』を立った飛脚が、異議なく大坂へ着いたことを伝える。同月(7月)26日の書状も近江佐和山において拝見したことを伝える。この飛脚(7月26日の書状を持ってきた飛脚のことか?)は大坂へ通したことを伝える。(飛脚は)追って帰し遣わす予定であると伝える。尾張国攻撃の予定、ならびに加賀野井重望による水野忠重(三河国刈谷城主)殺害などについて報じる。『我等』(石田三成)のことは、尾張・美濃境目の仕置のために、尾張方面へ一昨日(8月)8日に出陣したことを報じる」と。
 三成と佐竹義宣の親交の深さがうかがえ、互いに連絡を取り合っていたことがわかる書状ですが、むろん佐竹家を味方に取り込む目的もあったのでしょう。

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