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zoom RSS 石田三成の実像1779 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」5 慶長5年9月の連署状

<<   作成日時 : 2016/11/22 19:04   >>

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白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)では、石田・毛利連合政権の発給文書について、時系列別に検討されていますが、慶長5年9月には、「9月13日付多賀秀種宛増田長盛・毛利輝元連署状」が発行されたことについて考察されています。増田や毛利と「同じく大坂城に在城していたはずの前田玄以は連署していない」ことについて、「前田玄以は京都所司代でもあった関係上、常時大坂城に在城していなかった可能性は考えられる」と指摘される一方、布谷陽子氏の見解も紹介されています。
 すなわち、「8月中旬以降(中略)二大老・四奉行連署の書状は発布されなくなり、またこの間に前田玄以の中立(中略)などが行われた」と。
 白峰氏の同書では、「三奉行が『内府ちかひの条々』を出した7月17日以降において、前田玄以単独の大名宛の書状発給は確認できない」と記されています。
 前田玄以がいつから中立の立場を取るようになったのかについては、今後十分検討すべき課題だと思われます。
 なお、9月13日というのは関ヶ原の戦いの2日前であり、大老の宇喜多秀家、及び奉行の三成は大垣城におり、同じく奉行の長束正家は南宮山にいました。
 この時点で、大坂城にいた大老と奉行が連署状を復活させざるをえなかった理由について、白峰氏の同書では、「8月中は豊臣公儀にとって上方では戦いがなく沈静化していたが、9月になって大津城攻防戦が勃発して戦功を褒奨する連署状を発給する必要が出てきたからであろう」と指摘されています。
 この9月13日付連署状は二通出されていますが、その内容について、白峰氏作成の「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」の中で、次のように記されています。
 1通目は「大津城三の丸・二の丸を今朝一番に乗り崩し、首5つを討ち取ったことを賞する」というもの、2通目は同日の午之刻(昼の12時頃)に出され、「大津城三の丸を載り崩した旨の注進を聞き届け、満足したことを伝える。その御手柄を賞する」というものです。
 京極高次が家康側に寝返ったため大津城を攻めなければならなくなったことで、その攻撃に加わった勢力が関ヶ原に駆け付けられなかったことが、関ヶ原の戦いの勝敗に大きな影響を与えたことは確かでしょう。そのことが三成方にとって、大きな誤算だったことは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)にも記しました。
 白峰氏の同書では、布谷氏の二大老・四奉行の役割分担に関する見解についても、検討が加えられ、独自の見解が示されています。
 まず布谷氏の見解について、「@二大老…軍令を発令する、四奉行…その軍令の詳細を伝達する、という分担があり、A二大老…同じ大老の前田利長に対する勧誘工作をおこなう、四奉行…基本的に諸大名に対する勧誘工作をおこなう、という分担があった」というものだとまとめられています。
 

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