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zoom RSS 大河ドラマ探訪455 「真田丸」122 太田浩司氏の「『真田丸』講座」第三回3 秀吉の遺言状

<<   作成日時 : 2016/11/24 10:58   >>

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 太田浩司氏の「『真田丸』を三倍楽しむ講座」の中で、「豊臣秀吉の遺言状は存在したのか?」という話題に対して、「浅野家文書」「早稲田大学所蔵文書」「毛利家文書」に遺言状が残っており、矢部健太郎氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)の記述が取り上げられ、講座のレジュメにも掲載されていました。その記述は、「早稲田大学所蔵文書」「毛利家文書」が上下段に並べて比較されている部分であり、どちらも8月5日付のもので、結論的に言えば、「重い病の床につき、この10日余り後に死を迎える秀吉の様子を見れば、下段の『豊臣秀吉自筆書状写』の方が、より信憑性は高いと考えるのが自然であろう」と指摘されています。
 「下段の『豊臣秀吉自筆書状写』」が「毛利家文書」の方であり、「真田丸」で使われていたのはこの書状でした。太田氏も矢部氏の見解と同様、この遺言書は信憑性が高く、かな書きを多用している事も根拠に挙げられていました。高校の日本史の資料集に掲載されているのも、この遺言書の方ではないでしょうか。
 「真田丸」では本文は家康が書かせ、追書の部分は三成が書かせるという描き方がされていましたが、これはむろんフィクションだと述べられていました。
 「早稲田大学所蔵文書」の方は、矢部氏の同書に次のような研究成果が紹介されています。 
 「清水亮氏の最新の研究によって、家康の体面を重んじた宮部長熙(ながひろ)もしくは継潤(けいじゅん)が、江戸時代になって作成した可能性も指摘されている」と。
 「浅野家文書」の「秀吉遺言覚書」の方については、太田氏の講座のレジュメには掲載されていませんが、矢部氏の同書では、さまざまな疑問点が出され、「この文書自体、関ヶ原合戦後に手が加えられた可能性について可能性についても考慮すべきであろう」と指摘されています。
 この「秀吉遺言覚書」からは、「秀吉の側近くには家康や『年寄衆』五人=玄以・三成・長盛・正家・長政らが詰めていて、その遺言を実際に聞いた」ことになるが、「慶長3年7月に『五奉行』が伏見城に参集できた日というのは、わずか数日しか想定できないことになってしまう」と指摘されています。
 矢部氏の同書では、そのことに関して、この前後の三成の動向に注目にされています。三成は筑前、筑後の代官として、5月29日に京を出発し、戻ってきたのは7月15日だということ、また越前の検地に行っていた長束正家が京に戻ってきたのは、7月20日であり、さらに三成らは7月23日には大坂に下向したこと。
 三成は秀吉の死の直前は、秀吉のもとにずっといたような描き方が小説やドラマではよくされていますが、実際はそうではなく、いろいろと動き回っていたわけです。

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