関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1781 大河ドラマ探訪456「真田丸」123 太田氏の講座4 三成の家康襲撃計画否定

<<   作成日時 : 2016/11/26 11:14   >>

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 太田浩司氏の「『真田丸』を3倍楽しむ講座 第三回」で、「石田三成の家康襲撃計画はあったのか?」ということについても、触れられていました。この襲撃計画については、「真田丸」でまるまる一回分を使って描かれていましたが、拙ブログ記事で以前、否定的な見解を述べました。太田氏も「当代記」にのみ記載されている事件であり、否定的な見解でした。
 その当代記に書かれている記述が、講座のレジュメに掲載されていました。敦賀市立博物館の図録「大谷吉継と西軍の関ヶ原」からの抜粋ですが、暗殺計画に関する部分の口語訳は次のように記されています。
 「慶長4年己亥正月、中旬より伏見ではさまざまに噂がたった。これは家康を亡ぼす企てが石田三成により進められているというものである。(しかし)その折、家康の家来衆が関東から伏見に上っていたこと、また、大谷吉継が家康方についたので、石田方についていた武将たちも多く吉継に倣い、何事もなく、2月には落ち着いた。家康と前田利家との間でも話し合いがおこなわれ、(秀吉死後の家康と他の大老・奉行衆との)関係が修復された」と。
 「真田丸」はこの記述に添った描き方がされていました(むろん、もっと多くの人物を絡ませてドラマチィックに仕立てていましたが)。この記述で注目すべきは、「吉継が家康方についた」という点であり、太田氏の講座でもこの点が強調されていました。
 家康が秀吉の遺命に背いて他の大名と婚姻を結ぼうとして、それが四大老・五奉行によって問題化され、諸大名が前田方と徳川方に分かれた時、吉継は家康側についていました。
 同図録のコラム「大谷吉継と徳川家康」も講座のレジュメに掲載されていますが、その中で、三成が家康を政治的にか、暗殺によってか葬り去ろうとする際に、「三成の動きに吉継は連動していない。むしろ家康を支持する動きをみせているのが吉継である」と記されています。
 また同コラムには、そのような吉継が家康に反旗を翻した理由について、「当代記」に次のような記述があることも紹介されています。
 「宇喜多騒動を仲裁した折に、吉継が当主宇喜多秀家の言分に同調したのに対して、家康は家老衆を弁護したが、結果、家康が大谷の主張を『批拠』(非拠、道理がない)として斥けたことを不満に思ったからである」と。
 宇喜多騒動については、大西泰正氏の「宇喜多騒動の経緯」「宇喜多騒動の展開と結果」(『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家』【岩田書院】所収)の中で、詳しく論じられています(以前拙ブログ記事でも取り上げました)。この騒動に家康が裁定を下しますが、大西氏の同書には、「この騒動への介入は、家康による豊臣政権を掌握していく一階梯として見なすべき可能性を有している」と指摘され、「宇喜多氏の家中騒動は、豊臣政権の自壊を促した」と捉えられています。

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