関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1782 高木優榮氏「三成の関ヶ原転進は予定の作戦」 山中村に残る三成書状の写し

<<   作成日時 : 2016/11/27 11:15   >>

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 山田喜雄氏から関ヶ原町歴史民俗資料館元館長の高木優榮氏の「三成の関ヶ原転進は予定の作戦」(『新・歴史群像シリーズ@』【学研】所収)のコピーをお送りいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。
 山田氏とは、今年の三成祭でお会いしました。その前日に、山田氏は高木氏の案内で関ヶ原町の山中を訪れ、その際、いただいたものだそうです。
 山中には、三成が郷土に宛てた書状の写しが残っており、その書状の写しは、家康が三成方を関ヶ原におびき出したのではなく、三成方が関ヶ原に移動することは予定の行動 だったことを物語るもので、地元では代々そのことが受け継がれてきたと云います。
 その書状の写しは、「はじめに関ヶ原において関東勢と合戦に及ぶことを明言したうえで、『(村内の)地案内の事ども頼み存じ候 もっとも地の利により浮田秀家、大谷刑部両将の陣取り場所等宜しく差し図給(たま)わるべく候』と結んでいる」と高木氏の同書では記されています。
 さらにその書状の写しには、9月10日付で嶋左近の奥書きが書かれており、そのことが重要だと指摘されています。
 高木氏の同書では、「9月3日以来、すでに大谷隊による西軍諸隊の陣の構築が進むなか、三成としてはそれを後押しする形で、山中村郷士集団に協力方を要請する書状を送ったと考えられる」と記されています。
 さらに「山中村のこの伝説も、ご多分に洩れず抹殺された書状を、何時しかほとぼりのさめた頃に、先祖が記憶から写しに再現し伝えたのであろう」とも指摘されています。
 三成方が関ヶ原で戦うことを想定したというのは、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)でも記しましたが、その根拠として土塁が築かれていることを挙げました。土塁は一朝一夕にできるものではないからです。
 もっとも、この山中村に伝わる書状が写しというのが気になりますし、記憶を頼って書かれたものでしょうから、その内容にどれだけ信が置けるかは問題となるところです。その書状の写しには、三成の花押が記されていますが、この花押も真似されたものでしょう。しかし、地元にそういう書状の写しが残っていることが重要であり、なにがしかの真実を伝えるものかもしれません。
 もっとも、大谷吉継が山中村に前もって布陣してはいないということが、高橋陽介氏や白峰旬氏によって指摘されていますから、このあたりは今後の検討課題と云えます。
 三成方が家康におびき出されたのではなく、あくまで三成方の事情によって関ヶ原に移動したことは最近の研究によって明らかになってきています。

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