関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1761 白峰旬氏「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」4 白兵戦の実態

<<   作成日時 : 2016/11/03 11:16   >>

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白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)の中で、島津家臣史料の成立年代がわかるのは、寛文3年(1663)、寛文4年、寛文元年、万治2年(1659)、明暦3年(1657)であることが明らかにされています。
 その作成経緯について、「関ヶ原の戦いから50年以上経過し、関ヶ原の戦いに参戦した島津家家臣が生きているうちに、その記録を提出させて薩摩藩の記録をまとめて保存しようとしたことに起因していると考えられる」と記されています。
 「板坂ト斎 慶長記」も、後年、板坂が昔のことを思い出して書いたものですし、「霜女覚書」も細川カラシャの侍女だった霜女が関ヶ原の戦いの69年後に、当時のことを思い出して語ったものであり、いずれも記憶を頼りに記されたものですから、どれだけ信を置けるかわかりませんが、戦いの体験者が時を経ずして具体的に記した一次史料(書状類は別にして)は残っていない現状では、戦いの体験者が後年、語ったり記したものを手がかりにするしかありません。
 この点について、島津家家臣の史料について、白峰氏の同書の「おわり」に次のように記されています。
 「後日の回想の段階で記憶違いがあった可能性もあり、記載内容の正確さについては史料批判が必要であるが、本稿で検討したように、関ヶ原の戦いの本戦当日(9月15日)の具体的な戦闘記録としては貴重な史料である」と。
 白峰氏の同書には、白兵戦の実態についても触れられていますが、「島津義弘、島津豊久の両将と重臣クラスのみが馬に乗っていたことがわかる」、「馬上で使用した武器については、島津豊久は馬上で弓、鑓を持っている」、「騎馬(の武士)の脇を徒【かち】(の武士)が固めてガード(守備)するシーン(状況)がよくわかる」「兵科別編成はこの場合、確認できない」などと記されています。
 戦闘のプロセスについて、「家康方の騎馬による密集突撃(700騎)が2回あ」り、そのことは「合戦は1度(1回)の戦いで決着が付くのではなく、波状攻撃のように、複数回にわけて敵の攻撃(敵との戦い)があったことを示している」と指摘されています。
 また「敵味方が入り乱れての白兵戦では鉄炮は役に立たず(敵が接近しすぎているためか?)刀を使用した」こと、「敵味方の区別ができない程の乱戦であった」こと、「敵勢は充満して(いた)、ということから、かなりの兵力差があった」ことなどがわかることも述べられています。
 激しい白兵戦のさまが目に浮かぶようですが、兵力差がものを言ったという指摘もなるほどとうなずけます。

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