関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1763 白峰旬氏「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況について」6

<<   作成日時 : 2016/11/05 08:25   >>

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 白峰旬氏の「関ヶ原の戦い当日の戦闘経過・戦闘状況についてー島津家家臣史料の検討ー」(愛知中世城郭研究会発行『愛城研報告』所載)の最後に次のように締めくくられています。
 「今後は、『旧記雑録後編三』収載の関ヶ原の戦いに関する島津家家臣の史料を詳細に検討・考察した前掲・桐野作人『関ヶ原 島津退き口』と共に、本稿で指摘できた諸点についても検討材料に加えて、関ヶ原の戦いの本戦当日(9月15日)の状況を再検討していく必要があろう」と。
 桐野作人氏の「関ヶ原 島津退き口」については、これまで拙ブログ記事でも取り上げてきましたが、島津義弘隊が二番備だったという点や、関ヶ原の戦いが終結したのは通説よりも早かったという点では一致しています(史料にある「一時」が、「二時間」【桐野説】)か「わずかな時間」【白峰説】)かという違いはありますが)。 
 もっとも、島津豊久が先備だったということは桐野氏は触れられていませんし、桐野氏の同書では小早川秀秋が裏切った後、三成家臣の八十島助左衛門、ついで三成が島津豊久の陣中を訪ね、参戦を促したものの、島津方は勝機が去ったことを知り、三成に自分のために戦うしかないと告げたと指摘されています。
 また桐野氏は義弘について、「まだ戦機至らず(自分の出番ではない)と判断して甲冑を着けずにいた。それ以前に石田勢が敗走を始めた」と指摘されています。このことは、白峰氏の同書でも触れられていますが、白峰氏はこれについて別の見方をされています。
 すなわち、「家康勢軍勢に一方的に攻撃されて、石田方の軍勢が最初から防戦にまわったため、義弘が戦う準備をする前に一方的に攻め込まれたと考えることもできよう」と。
 島津家家臣史料は「回想録的史料」であるため、「後日の回想の段階で記憶違いがあった可能性もあり、記載内容の正確さについては史料批判が必要である」と白峰氏の同書で指摘されており、その点はよく検討しなければならないと思いますし、島津家史料の記述を裏付ける、さらなる史料の発掘が望まれます。
 なお、島津家史料の中には、島津方が布陣した場所が「山中」とは記されておらず、「関ヶ原」と書かれており、桐野氏の同書でも、島津方が関ヶ原に布陣したと記されていますし、三成方をはじめとする諸将の布陣図は従来の説に従ったものになっています。
 この点について、白峰氏の同書の註の中で、「島津家家臣史料は後世の回想録的史料であるため、戦場について関ヶ原という地名が定着したあとに成立した史料であることによるものであると考えられる」と記されていますが、このあたりもそれを裏付けるような史料が他にないか、今後の研究に期待したいと思います。

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