関ヶ原の残党、石田世一の文学館

アクセスカウンタ

zoom RSS 石田三成の実像1766 水野伍貴氏の講演「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」1 五奉行と五大老とは

<<   作成日時 : 2016/11/08 10:45   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 2 / トラックバック 0 / コメント 0

 石田会館で行われた水野伍貴氏の講演会「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」ですが、水野氏の講演を拝聴するのは初めてでした。もっとも、以前に拙ブログ記事で取り上げたように、水野氏の「石田正澄と石田三成」(『歴史読本』2011年12月号所載)の中で、武断派七将による石田三成襲撃事件後、蟄居した三成の動向について、家康寄りであり、その根拠として前田利長らに家康暗殺の嫌疑がかけられた時、三成が家康の意向を受けて、利長の上洛を阻止するために越前に出兵したという記述が島津家史料にあることを挙げられていました。今回の講演でも、そのことに言及されていましたが、そのことについては追って取り上げます。
 今回の講演では、はじめに五大老と五奉行について論じられていました。
 「豊臣秀吉の死の直前に構築された政治機構」であり、「幼少の豊臣秀頼(6歳)に代わり豊臣政権を運営」したが、「『五大老五奉行制』は後代に定まった呼称」で、「当時は決まった呼称はない」と指摘されていました。五大老と五奉行が共に相手を「奉行」と呼んでいたことも述べられていました。
 五大老は有力大名で構成されているのに対して、五奉行は秀吉直属の吏僚で構成され、「五大老と五奉行の間に官職と石高で明確な差」があるものの、五奉行は五大老の下部組織ではなかったと指摘されていました。
 その根拠として、慶長3年9月3日付の五大老・五奉行連署の誓紙が挙げられていました。その中の「諸事御仕置等之儀、其軽重をけつし、十人之衆中多分に付て相究べき事」という記述から、「10人の多数決制を示す文言」だと説明されていました。
 五大老・五奉行の職掌について、「浅野家文書」の「豊臣秀吉遺言覚書」の記述が取り上げられていました。すなわち、「家康は伏見に鎮座。利家は大坂に鎮座して秀頼の後見。秀家は五大老と五奉行の仲を仲介。五奉行は豊臣家の財源(領地、城)を管理、諸大名に秀吉の遺命を遵守させる」と。
 「家康が伏見に鎮座」とあるのは、伏見城にいるという意味ではなく、伏見の徳川屋敷にいることだと説明されていました。ちなみに、家康が伏見城に入ったのは、三成が武断派七将による襲撃事件の責任を取らされ、奉行職を解かれ、佐和山に引退した後でした。
 五奉行のそういう重要な役割に対して、五大老の方は「平常時における五大老の役割は現状維持を旨とする知行安堵状を発するのみ」だとする堀越氏の見解、「朝鮮からの撤兵、大名間相論の解決、反乱や謀反への対処」だとする谷氏と堀越氏の見解、「日本で最も有力な大名たちが今後も変わりなく豊臣政権を支持していくことを形して表したもの」だとする堀越氏の見解が紹介されていました。
 

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 2
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
石田三成の実像1766 水野伍貴氏の講演「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」1 五奉行と五大老とは 関ヶ原の残党、石田世一の文学館/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる