関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1767 水野伍貴氏の講演2 白峰旬氏の「イエズス会日本報告集」の五大老五奉行の考察1

<<   作成日時 : 2016/11/09 10:43   >>

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 三成祭の際、石田会館で行われた水野伍貴氏の講演会「関ケ原合戦に至る石田三成の動向」の中で、秀吉の意図した五大老・五奉行制とは、「秀頼の意向を代表する役割は、五奉行の側にあり、五大老は諸大名の代表として、その施策を承認し、支えてゆく」ことだったとまとめられていました。
 それを示すものとして、水野氏の講演では、「1598年度日本年報」の記述が紹介されていました。
 すなわち「主君なる己が息子のことを特別に面倒を見てやり、また家族のことや、さらには日本全土のことを司って、重要な事項のすべてを家康とその四名の同僚に報告させることにした」と。
 「主君なる己が息子」とは秀頼のことであり、この引用文の主語は五奉行です。
 白峰旬氏からご恵贈賜りました論考「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における五大老・五奉行に関する記載についての考察(その2)」(別府大学史学研究会『史学論叢』第45号)には、史料としてこの記載も取り上げられていますが、上の引用箇所の前にこういう文章があります。
 「彼(秀吉)は、五大老の権力が強すぎはしないかと疑問を抱き、彼が大いなる栄誉へ抜擢した寵臣たちの中から、五(名)を選んだ」と。
 「五(名)」が五奉行のことです。引用文はまだ後もあるのですが、白峰氏の同書でははこういう記載から、次のようなことがわかると記されています。
 「五奉行については、@五大老の権力が強すぎることを危惧した秀吉が側近の中から5名を選んだ、Aよって、五奉行は五大老の権力拡大を規制(抑止)するストッパー的役目を担っていたことになり、成立した順番としては五大老が先に成立して、そのあとに五奉行が成立したことになる、B主君である秀頼について『特別に面倒』を見て、豊臣家の家政にも関与する、C日本全土のことについて司り、重要事項はすべて五大老(家康と4名の同僚)に報告する、Dよって、日本国の統治者として、『栄誉ある称号と名前』を得ていた」と。
 さらに次のように白峰氏の同書では指摘されています。
 「五大老・五奉行ともに国家の統治に関与している、ということや、五奉行は五大老の上意下達機関ではなく、五奉行が重要事項をすべて五大老に報告するくらいの関係でしかないことがわかる。また、五大老を牽制する目的で秀吉が五奉行を任命したことからすると、五大老と五奉行は基本的に同格であり、五大老・五奉行の10名は同様の立場から国家全体の統治に関与した、と見なすことができよう」と。
 つまり、五大老と五奉行は同格だというのが白峰氏の見解、五奉行の方が秀頼の意向を代表する重要な役割だったとするのが水野氏の見解ですが、五奉行が五大老の下ではなかったという点では共通しています。
 
 

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