関ヶ原の残党、石田世一の文学館

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zoom RSS 石田三成の実像1784 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」7 島津忠恒宛二大老連署状

<<   作成日時 : 2016/12/01 10:18   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で取り上げられている「(慶長5年)8月朔日付島津忠恒宛毛利輝元・宇喜多秀家連署状」ですが、白峰氏が作成された「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」には、その書状の内容について、次のように記されています。
 「『天下之儀』は『古暦』より申し入れるので(詳しくは)述べない。御人数(軍勢)について国中残らず召し連れて上洛するように指示する。玉薬・兵糧等のことは『公儀』より申し付けるので、御人数(軍勢)は有り次第に御馳走するように指示する」と。
 この部分の注には、「この二大老連署状で『天下之儀』について言及し、『公儀』として軍勢動員・上洛を命じている点は注目される。玉薬・兵糧等は『公儀』から支給される、としているのは石田・毛利連合政権が公儀の軍(公儀軍)であることを明確に示している。そして、石田・毛利連合政権=公儀であることを明確に示している」と記されています。
 「真田丸」では、三成たちが豊臣公儀を打ち立てていたという視点ではあまり描かれていませんでした(軍議の場面はありましたが)。各大名への書状も、大谷吉継が一手に書こうとしていたのを手がいうことを効かず、三成が代筆するという場面がありましたが、実際は二大老・四奉行が連署で、あるいはそれぞれが単独で書いており、集団的な要素が強いものでした。「真田丸」では、従来通りの、三成には人望がないという捉え方がされていたので、三成たちが集めた大名の数が少なく、それが敗北を喫した原因だというような考え方が表れているような気がしました。
 この連署状が発給された8月朔日だけとってみても、「石田・毛利連合政権の発給書状についての時系列データベース」には、二大老・四奉行の連署状が2通、長束正家・増田長盛連署状が1通、増田長盛単独の書状が1通発給されています。「内府ちかひの条々」が出されて以降、連合政権が発給した書状は、わかっているだけでも、50通を超えています。他にも破棄された書状が多数あったに違いありません。よく家康が江戸にとどまって各地の大名に書状を多数送り、それが勝利に結びついたという捉え方がされていますが、それは一面的な見方であって、石田・毛利政権側も多数の書状を出していたのです。
 またこの二大老連署状では、「国中残らず」や「有り次第」という描き方がされていますが、国元の義久は派兵に反対であり、関ヶ原に集まったのは、1500名程に過ぎませんでした。もっと大量の人員が動員されておれば、戦いの結果も違ってきたものと思われます。
 

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