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zoom RSS 石田三成の実像1791 白峰旬氏「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」12 景勝に委ねられた作戦

<<   作成日時 : 2016/12/10 18:57   >>

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 白峰旬氏の「豊臣公儀としての石田・毛利連合政権」(別府大学史学研究会『史学論叢』第46号)の中で、連合政権側から上杉氏に託された役割として、阿部哲人氏の次のような見解が紹介されています。
 すなわち、「西軍の一翼を担うことになった景勝には大きく二つの作戦が委ねられた。第一は関東出兵である。家康の本拠である関東を軍事的に攻略することが求められた。第二は奥羽諸将の統率である。」、「景勝は両者(引用者注 伊達政宗、最上義光を指す)を軍事指揮権のもとに統括しようとしたのである。そして、それは広く奥羽諸将を対象としたと考える」と。
 周知のように、家康が会津攻めを止めて上方へ引き返した時、上杉氏は家康を追うことはせず、家康を討つ絶好の機会を逃したようによく言われますが、伊達氏や最上氏は家康側に立っていましたから、この時点で関東に攻め込めば、彼らが領内に攻め込む可能性が高く(実際、伊達氏は7月25日に白石城を奪還しています)、実際、それは不可能だったように思えます。それに上杉氏が上方や西の戦いは長引くものと判断していたということも考えられます。もっとも、三成方は、上杉が関東に早く攻め入ってくれるものと考えていたことは、昌幸宛の三成書状からもうかがえます。 
 白峰氏の同論考には、「義演准后日記」の慶長5年8月21日条に「伊達政宗・最上義光・佐竹義宣が上杉景勝と共に豊臣公儀方(『京御方』)に付いている」との記述があることが示され、「上杉景勝から伊達・最上両氏に対して降伏を求める働きかけが積極的におこなわれていた」という「動向を反映したものであろう」と指摘されています。
 少なくとも、この時点においては、石田・毛利連合政権が上方を掌握しており、東北でも豊臣公儀に味方するという楽観的なムードが広がっていたことがうかがえます。
 白峰氏の同論考には、8月13日付・8月18日付・8月19日付最上義光宛南部利直・戸沢政盛・本堂茂親起請文が史料として取り上げられ、この文中の「『上様』は豊臣秀頼、『中納言様』は毛利輝元(安芸中納言)を指すと考えるべきであろう」、「景勝は東国において豊臣公儀を体現する大老であることから、奥羽の諸将が最上義光に対して『上様・中納言様』を粗略にしない旨の起請文を出し、それを上杉景勝が取りまとめて上方にいる秀頼に送る予定だったのであろう」と指摘されています。
この起請文の「上様」は徳川家康、「中納言様」は徳川秀忠とする阿部哲人氏の見解も紹介されていますが、白峰氏の見解は全く逆のものです。この時点で、他の大名が家康を「上様」と記した書状があるのかどうか検討する必要があります。豊臣公儀が存在する以上、「上様」はやはり秀頼であるとする白峰氏の見解は妥当なものだと思えます。

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